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水に溢れるもの
2010年3月27日
わたしが生まれ育った国では、誰にも会わなくても、蛇口からも、トイレからも、シャワーからも、洗濯機からも、欲しいときに水が出てくる。小学生だったころ、夏に一度だけ数時間の断水を経験したことがある。節水と書かれたシールはよく目にするけれど、水に困ったことはない。「体によい」と聞いて休日にどこかの田舎に湧き水を汲みに行ったのと、たまに市販の飲料水を買う以外、水を運んだこともない。
わたしがやってきたこの国には、水の出る家も、出ない家もある。水道はあっても水の通らない家がほとんどで、家の敷地内または近所の井戸や水タンクに水を汲みに行き、運んでくる。大きな都市であれば、リアカーでポリタンクの水を家庭まで運ぶ水売りがいる。水18リットル、20ナイラ(約12円)。水売りを見つけたら、アパートの4階からでも大きな声で彼を呼びとめ、水を運んでもらう。生活水をもとめて誰にもかかわらずに日常をおくれることはない。
アーティストの日曜日
2010年3月20日
日曜朝8時半過ぎ、似たような風景がつづく住宅地の長い一本道。飛ばすバイクタクシー運転手の背に乗っていると、風と砂ぼこりで目をちゃんと開けていられない。この先のどこからか、ドラムセットの打つリズムに手拍子、歌声と叫び声が聞こえてくる。その音がもっとも近づいた場所で、バイクを降りる。音のするこの民家は、アーティストのパパケイが通う教会だ。
日曜礼拝はもちろん、毎週水曜夕方の聖書学講座、そして隔週金曜の祈りの晩に、パパケイは家族そろってこの教会へ通う。聖歌隊の隊長もつとめているので、その練習も頻繁にある。さらに、「祈りの勇士」のメンバーであることから、毎月1回金曜の晩には家族を家に残し、夜を徹して祈りに教会へ。3か月に一度は、このメンバーで3日間断食して夜通し祈る。
第7回 大地が震動するとき ―ハイチとドミニカの関係―
2010年3月13日
写真:路上でマニ(ピーナッツ)を売るハイチ系の男性、サント・ドミンゴにて
ハイチ地震
2010年1月12日、現地時間午後4時53分、大地が揺れ動き、ハイチという国が一躍有名になった。そして同じ島をわけあっているドミニカもしかり。ハイチの首都ポルトー・プランスを襲ったマグニチュード7.0の大地震で、23万人が死亡、150万を超える人びとが住居を失った。地震発生から2週間後の1月24日、私は多くの被災者救援ボランティアにまじってドミニカのラス・アメリカス国際空港に降り立った。彼らはハイチの空港が閉鎖されているので、ドミニカから陸路、国境を越えてハイチへと向かうため、こちらはドミニカで継続中のフィールドワークをおこなうためである。
最初の情報提供者は、空港で拾ったタクシーの運転手。
「あの時は運転中だったけど、しばらくは何が起こったかわからなかった。車を停めて、揺れがおさまるのを待ったよ」
その後も数度の余震を感じたというが、幸いにもドミニカ国内に被害はなかったとのこと。タクシーが首都サント・ドミンゴ中心部にさしかかる。なるほど、半年前ととくに変わった形跡もなく、穏やかないつもの光景だ。ただし、その光景には欠かせない重要なピースが抜け落ちている――ハイチ系移民労働者の姿である。普段なら通りごとに、必ず三輪自転車を停めてジュースを売るハイチ系の人たちを目にするのだが、やはり祖国に帰ったのだろうか。めっきりその数が減ったように思う。
台所に弟
2010年3月13日
かつて向かいの部屋に住んでいたアレックスは、大学へ通う姉と一緒に暮らしていた。毎朝大学へ行き、キャンパス内のバス停近くに黄色いパラソルを広げるアレックス。その下で学生たちに携帯電話のプリペイドカードを売って得る収入を、姉との生活費のたしにしていた。毎晩10時ごろだっただろうか、仕事から帰り食事を済ませたアレックスは、ノックしてわたしの部屋に入ってくる。その日あったこと、生まれ育ったラゴスの思い出、将来の夢、いろいろな話をはじめた。机に向かっているわたしはペンを置き、彼の話に耳を傾ける。たわいもないことだけれど、かけがえのない時間。机の左斜め後ろにあるベッドに腰掛けて話しつづける彼は、わたしの弟のような存在。
一緒に過ごしたあの日々から6年の歳月が流れた。25歳になった弟は大学で短期資格取得コースを修了し、今はラゴスで仕事を探している。
美術と魔術
2010年3月6日
午後4時前、下宿先を出て祭りの会場へ向かった。会場で作品をたくさん売るから見においでと、彫刻家のジョナサンがわたしを誘ってくれた。毎年6月にイフェでおこなわれるこの祭りは、イファというヨルバの土着信仰を祝う。この信仰は、ナイジェリア国内はもちろん、かつてヨルバの人びとが奴隷貿易で渡った南北アメリカ、カリブ諸島にも受け継がれていった。しかしキリスト教やイスラム教の影響により、現在、ナイジェリアでのイファ信仰はマイノリティである。
木に彫られたヨルバの神々の姿や象徴は、崇拝の対象として、また儀礼の道具として、イファ信仰に欠かせない。この日、イファの信者たちは国内他州からも、ブラジルからも来ていた。彼らがもとめるジョナサンの木彫は、とぶように売れる。その様子を撮影するわたしが乗った不安定な椅子を、ジョナサンの奥さんが支えてくれている。この長い椅子には、イファ信者のおじいさんたちも腰かけていた。めずらしそうに辺りを見まわすわたしにほほえみかけたり、おじいさん同士、話に花を咲かせたりしている。けれど奥さんは言った。
「気をつけて。この人たち、ジュジュを使うんだから」
エクーエワ
2010年2月27日
いつものように出かけようとすると、下の階に住むおばさんと娘のブリジッタが外に椅子を持ちだし、重なりあうように腰掛けている。街角でもよく目にする女性ふたりの姿だ。
服、靴、鞄、アクセサリーなどの装飾品、そしてメイクアップにヘアー・スタイルと、女性たちはつねにファッションに敏感である。男性たちも、出かける前のお風呂(水浴び)、服のアイロンがけ、靴磨き、髪のブラッシング、香水といった身だしなみをとても大切にする。
いつも着まわしている服にうす汚れたスニーカー、背中にはゴツゴツのリュックサック、ノーメイクにピアスもなし。髪はくくって団子にし、指輪もネックレスもしないわたしは、お洒落じゃないどころか男性と思われることが多い。
完成の瞬間
2010年2月20日
「本当は画家なんだけどね。なんでもできないとここではやっていけないし、新しいことに挑戦するのも好きだから」
乾季の太陽が照りつける酷暑の屋外をよそに、ひんやりした教会。床に腕をつけたパパケイの筆先は、太陽の光に照らされている。いよいよサインをする、完成の瞬間だ。
この日パパケイが完成させた作品は、カトリック教会から依頼されたコンクリート製の彫刻。高さ3メートル、幅1.5メートル、奥行き0.8メートルの彫刻は10パーツにわけて制作され、各パーツは教会へ搬入したのち溶接して組み立てられた。薔薇の蔓(つる)がまかれた洞窟の入り口を模したこの彫刻の前に、教会が所蔵する聖母マリア像が置かれることになっている。
バイクに花を
2010年2月13日
広大な大学キャンパスには、たくさんのバイクタクシーが走っている。学生たちは、20~30ナイラ(約12~19円、2010年2月現在)で、各学部やバス停、食堂や銀行などへ移動ができる。灼熱の太陽に照らされていると、数百メートル歩くだけでもかなりの体力を消耗する。バイクタクシーを頻繁に利用する教員や比較的裕福な学生たちも少なくないが、交通費を節約しようと歩く人が大半だ。20ナイラあれば、水とスナックを買って空腹から逃れることができるし、痛み止め薬なら3回分(6錠)買うことができる。けれども実はそれ以上に、運転マナーの悪さやあまりの事故の多さから、乗り物としても職としても、ナイジェリアでバイクタクシーは好まれない。
この日すでに歩き疲れていたわたしは、しかたなくバイクタクシーに乗ることにした。そこには3、4人の運転手が待機しており、そのうちのひとりにわたしはたずねた。
「この花、どうしたんですか?」
「そこに咲いてたからとってきたんだ。花が好きでね」
暴動と報道
2010年2月6日
2010年1月末、ナイジェリア中部プラトー州の都市ジョスで宗教暴動がふたたび起こった。そのニュースを日本で見ていたわたしは、自分がプラトー州にいたあの日のことを思い出していた。
2008年11月末、ジョスでの宗教暴動のニュースが世界へ向けて報道されたその翌日、ジョスで、ナイジェリアのアーティストたちが主催する国際アーティストのワークショップがおこなわれる予定だった。わたしも参加者としてジョスへ向かっていたのだが、急遽、ジョス市内に入る手前で他の参加者たちと合流し、そこから車で1時間ほどのパンクシンという町に滞在先を移すことになった。
テキストメッセージ
2010年1月30日
友人のトインが息子のロティミを連れ、ラゴスからわたしを訪ねてイフェまで来てくれたときのこと。朝食をとりながらわたしは、奨学金をもらわない限り、来年の今ごろは戻って来ることができないとぼやく。すると2人はわたしの手をとり、目を閉じた。
「神さま、どうかしらべがまたここに帰って来れますように」
それから幾月か経った2008年11月初め、オバマ大統領当選の速報が流れた。そして間もなく、わたしは申請していた奨学金の合格通知を受けた。結果を知らせてくれた日本の姉からの電話を切るとすぐに、トインに電話をかけた。
出発
2010年1月22日
トインはこの前日、弁護士になった。合計2年間つづいた大学のストライキを経て、5年制の法学部を7年間かけて卒業。その後、司法学校に1年間通い、見事ストレートで司法試験に合格した。
司法学校に通学中、マラリアとチフスの合併症を患い、肺炎もおこした。肺の痛みをこらえ、吐き出る血におびえながら勉強をつづけた。眠くなるたびに自分自身に言い聞かせた言葉。
「これで試験に落ちたら、もう一度学費を払うことなんてできない」
朝7時過ぎ、早朝は10度台だった気温が25度前後まで上がってくるころ。乾季の太陽はわたしたちを射しはじめた。すでに多くの旅人や物売りの人びとがバスのまわりに集まっている。ナイジェリアの長距離バスのほとんどは、白のトヨタ・ハイエース。授与式のある首都アブジャまで陸路10時間の旅。招待したかった母親と3歳の息子は来ることができなかった。家族みんなを代表して来たわたしを、トインはバスが発車するまで見送ってくれた。職探しと子育てというこれからの大きな不安を抱えながらも見せてくれた彼女の笑顔は、バスの窓越しでもまぶしかった。
第6回 「野球移民」降誕
2010年1月19日
写真:アメリカ合衆国ペンシルバニア州フィラデルフィア市シチズンズバンク・パークにて
MLB ―― 移民国家の縮図
野茂英雄投手がメジャーリーグ・ベースボール(MLB)に移籍した1995年のことである。NHKの衛星放送から流れる試合をぼんやりとながめていた私は、カメラが映しだす観客席の光景に釘づけとなった。当時、野茂投手のチームメイトにラウル・モンデシー――ドミニカ出身で新人賞を獲得――という外野手がいた。彼が打席に立つたびに、ドジャー・スタジアムの観客席から「ラウール」とスペイン語なまりの英語で掛け声がかかるのだ。アナウンサーが「ロサンゼルスには中南米からの移民が多く暮らしていまして、ラテン系の選手に対して熱心に声援をおくるのです」と説明をくわえた。当時の日本では、現在ほど街なかで外国人を見かける機会が少なかったから、ドジャー・スタジアムにつめかけた移民たちの表情までをはっきりと捉えた映像は新鮮だった。
その試合にはモンデシー選手のほかにも、ドミニカ、プエルト・リコ、イタリア、韓国に出自をもつ選手たちが出場していた。こんなことがあったのでMLBの選手名鑑を買ってきて選手の出身地を拾いあげてみると、なんと全選手のうち3割近くが外国出身者であった。アメリカ生まれとなっている選手でも名前がスペイン語読みの選手(祖先に中南米出身をもつ者)をくわえると、その比率はさらにあがる。MLBにたどりついた経緯はそれぞれ違うだろうが、国境を越えてアメリカにやってきた数多くの移民たちと同様に、彼らもまたMLBで野球をするために国境を越えてきた移民たちということになる。
今やMLBは、スタジアムにやってくる観客、プレーする選手たちも外からやってきた人たち抜きには成り立たなくなっている。歴史的に移民を受け入れることで国家を形成してきたアメリカでは、ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)といわれるベースボールも当然の帰結として多民族化する運命にあったということだろうか。