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My dear sister

2010年6月12日

子どもたちを学校へ送り、家の男たちが出かけた後、メイクをたのしむアミナとトイン。2008年10月9日 アブジャのアミナの家にて

ばかな男のことは忘れるのよ、わかった?
もっと楽しむことね、自分を自由にして
わたしもそう、バスであの街を通るたびに思い出したわ
あんたって人はもう……かわりにわたしが彼を愛してあげたい
でも夫は子どもたちを心底愛しているから……
あんたはまだましよ、わたしなんかもうなにも感じない
夢で見たわ、帽子をかぶったとびっきりやんちゃな男の子、あんたの子よ
19や20歳のときにとっくに経験ずみよ、そんな気持ち
彼の罪なら忘れられるの……でも他の男だったらだめね、絶交してそれでおしまい
急がないで、神さまが導いてくれるから

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ロータリーの青い空

2010年6月5日

カメラにおさめた、めずらしく青い空と大きな看板。2009年6月16日 イフェ、モダケケ地区とイレモ地区にまたがるロータリーにて

バス停に向かっていつものロータリーを歩いていたわたしは、ふと見あげた看板の背景が青いことに気づいた。なぜだろう、ここでは空が真っ青になる日は少ない。雲があってもなくても、空は白っぽく、淡い水色をしていることがほとんどだ。

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11月の天の川

2010年5月29日

「トイン見て、きれいやね……」
手が届きそうな天の川に、息をのむ。足もとの暗闇、目の前の人ごみ、胸に抱えたバッグ。眠らない、大都市ラゴスの夜。流れに乗ってただまっすぐ進まなければならないのに、立ち止まって見つめずにはいられない。

左斜め前を行くトインが、頭の上のバッグを右手でささえながら、ふりかえる。
彼女はほほえんだ。
「ほら、撮りなよ」

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看病

2010年5月22日

初めてマラリアにかかった日の翌朝、「食べなきゃ治らないよ」と、シェグンが作ってくれたお弁当。2009年3月18日 イフェ、モダケケ地区の下宿にて

体がだるい……。
朝から外出していたわたしは、昼過ぎに体の様子がおかしいことに気づいた。座っているのもだんだんときつくなり、仕方なく家に帰ることにした。床に一枚の布を敷いて横になる。それにしても、今日は暑い。

熱い。体温なのか、気温によるものなのか、なにが熱いのかわからない。いつのまにかあたりは暗い。不安になって下の階にいる友人に電話をかける。友人の携帯は鳴らない。少しでも冷たい空気に触れたくて、転がりながら窓の下へ行く。

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空をわたる人びと

2010年5月15日

機内食をとった後、眠るナイジェリア人乗客たち。2010年5月7日、ドーハからラゴスへ向かう飛行機内、スーダン上空にて

「なんの本を読んでるんですか?」
左の座席に座るタイ人の青年が、本のなかのモノクロ写真を興味深そうにのぞきこむ。
「今から55年くらい前にアフガニスタンを旅した人の探検記」
わかったような、わからないような顔をする青年。わたしは本を閉じ、イヤホンを外した。

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その顔を見せて

2010年5月8日

約束の記念写真を撮る準備をするみんな。左から、ママケイ、パパケイ、右から二人目がタヨ。ほかはママケイの見習いの女性たち。2009年10月6日 イフェ、イレモ地区のママケイの店にて

「明日来ると思ってたのに……」
着古したTシャツに膝丈のスカートでミシンに向かうタヨが、残念そうに言う。アーティストのパパケイの夫人、ママケイが営む仕立屋に見習いで通うタヨと、この翌日、わたしは記念写真を撮る約束をしていた。4か月近くつづいた大学のストライキが解除されることになり、翌週、タヨは大学がある隣の州に戻ることになっている。

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妹へ届かなかった手紙

2010年5月1日

ロンドンに住む妹のティティに手紙を書くトイン。2009年12月6日、イフェ、モダケケ地区の下宿にて

2010年4月19日、ロンドンの空港が再開されないまま5日が過ぎ、わたしは成田空港をあとにした。バックパックに押しこんだ一通の手紙は、妹へ届かなかった。

「さっきから2時間も待ってるのに、何も変わらないじゃないか」
「娘の試験が来週はじまるんです、どうしても明日までに飛行機に乗せてください」
思い思いの事情を抱えた人びとの長い列が、チェックイン・カウンターまで連なる。スーツケースが積まれたカートにもたれかかる白髪の男性が広げた英字新聞には、アイスランド火山の噴火とヨーロッパ各地の空港大混乱を報じる記事。その後ろで、半そでに短パン姿の金髪の男性が、4月半ばに雪降る異常な寒さに両腕をさすっている。

ティティは8年間、ナイジェリアの家族に会っていない。今年4月にロンドンへ行くことが決まったわたしに、姉のトインは、この手紙をたくした。

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ラゴスの宿

2010年4月24日

わたしが作ったナイジェリア料理を、「おいしいよ」と言って食べてくれたシェグン(左)とラジャ兄さん。 2009年12月11日、ラゴス、サテライトタウンのシェグンの下宿にて

携帯を気にしながら、ベルトコンベアと1時間半のにらめっこ。やっと自分のバックパックを見つけ、出口へ向かう。携帯はまだ鳴らない。はしっこの目立たない場所を探して荷物を置き、携帯をにぎりしめる。2時間経って、係員たちが掃除をはじめる。空港からだんだんといなくなる人びとを、柱に寄りかかり、ぼんやりと眺める。

ここ、西アフリカ最大の商業都市ラゴスの国際空港には、宿やレンタカーの案内所もなければ、バスはもちろん、安心して乗れるタクシーもない。

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子よ、孫よ

2010年4月17日


黄金桜

2010年4月10日

後輪に結ばれた朱色の錠をほどき、空色の自転車をこぐ。登校する小学生たちを追い越しながら、坂道をすべるように降りる。園児を送る何台もの父兄の車を軽いブレーキでかわし、ぐるり、ロータリーをまわる。臙脂(えんじ)色の電車の下をくぐった先で片足を地面につけ、スーツを着た人びとと並んで信号を待つ。真上を行くモノレールを見上げながら坂を登りつめれば、下に見えてくる高速道路をへだてた向こうに白色の小手毬(こでまり)と桜並木。疾走をつづけて着いたこの大学院生室からも、淡紅色の、七部咲きの桜が見える。

2010 年4月。2年ぶりにむかえる日本の春なのに、それほど懐かしくない、桜を見る感覚。

「オワンビオバイイー(ここで降ります)!」

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第8回 ドミニカからつづく日本球界への道

2010年4月4日

トライアウトの出番を待つ少年、ドミニカ共和国サント・ドミンゴにて
写真: トライアウトの出番を待つ少年、ドミニカ共和国サント・ドミンゴにて

トライアウト

2008年12月。サウスポーの彼は右手にグローブをはめると、私のほうをちらりと見やり元気よくマウンドへと駆けだしていった。首都サント・ドミンゴの片隅にある野球場。普段は大リーグを目指す野球少年たちの練習場に使われているが、この日ばかりは様子が違っていた。ネット裏に陣取ったのは、日本のプロ野球関係者たち。ドミニカで初めてとなる中日ドラゴンズのトライアウトがおこなわれたのだ。肩慣らしを終えていよいよ本番。キャッチャーに背を向け大きく深呼吸をし、投球練習をはじめるエクトルを見ながら、初めてバニの球場で出会った日のことを思い出していた。

19歳のエクトルは2年前、大リーグ球団のアカデミーと契約するが、ケガなどの不運もあってアメリカに渡ることはできなかった。地元に帰ると妻と子どもが待っていた。銀行に預けていた契約金を切り崩しながら、ぶらぶらする毎日。アカデミーにいるときに、左投手が重宝されるのを知っていたし、まだ可能性はあるはずだと疑わなかったエクトルは、ふたたび昔のコーチのもとを訪ねる。初めて彼の投球を見たとき、素人目には凄い投手に映った。スピードガンの表示は90マイル(144キロ)をさしていたし、コントロールも申し分ない。なので、遅かれ早かれ、どこかの球団が彼と契約するだろうと簡単に考えていた。

バックネットに直接あたってしまう暴投が続く。日本のボールになれないのか、初めてのマウンドに足をとられているのか……。その後も思ったところにボールがいかない。野次馬のあいだから失笑がもれる。気の毒なくらいに顔が引きつっている。見かねたコーチが、投球フォームのアドバイスをするが、今度はフォームに気をとられてスピードが落ちてしまう。いつもの投球が戻らないまま、トライアウトが終った。

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ウチェのバイト

2010年4月3日

アルバイトで、友人の爪の手入れをするウチェ。2009年4月17日 イフェ、オバフェミ・アウォロウォ大学の女子学生寮にて

ウチェは歴史学を専攻する大学4年生。生活を支えるのは、退職した母親からの仕送りと、パート・タイムで働く姉とロンドンに住む叔父からの小遣い。これでは、授業に必要な本のコピーもとれないし、3度の食事もままならない。美容院にも行きたいし、新しい服やアクセサリーもほしい。浪人中の弟にも小遣いをあげたい。

ナイジェリアでも若者たちはバイトをする。けれども彼らが雇われることはほとんどない。雇われるとすれば、10代の子どもたちまで。それもほとんどの場合は雇用主の手伝いや見習いであって、駄賃をもらえる程度。アルバイト雑誌も存在しない。若者は自分たちで仕事を立ちあげる。それが、ナイジェリアのバイトである。

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