第31回 野球狂顛末記②-塀のなかの生活-
2011年7月13日
写真:自由の身だったときのロヘリオ。ドミニカ共和国、バニの浜辺にて
刑務所へ
この日も太陽は容赦なく照りつけていた。
べへのバイクに揺られながら、塀のなかのロヘリオを思いうかべる。はやくも氷水の入ったペットボトルからは水滴が漏れはじめ、ベヘがギアを変えるたびにズボンの膝に染みをつくった。ベヘの背中が緊張している。私は昼食の入った網カゴを傾けないことに意識を集中し、それ以外はなにも考えないようにした。
刑務所は、街の入口を流れる川のふもとにある。受付にはすでに大勢の面会人の列ができており、私と同じく手に網カゴをぶらさげていた。パスポートと引き換えに入場札を受けとると、身体検査の列に並ぶ。さきに済ませたベヘが、すれ違いざまに意味ありげな笑みを投げかけてきた。パンツのなかまでチェックされるのだ。映画でしか目にしたことのない光景に、どうふるまっていいかわからない。さきほどから、地に足がつかないような感覚がつづいており、それは差し入れの昼食をチェックされているあいだもやむことはなかった。
塀の内側に入ると、バスケットコートほどの大きさの中庭に出る。その中庭を取りかこむ形で、4つの棟が建っている。中庭にいた男たちの視線が、いっせいに私に向けられ、値踏みをするかのようにずっとまとわりついて離れない。ベヘが知りあいを見つけて声をかけるまでは生きた心地がしなかった。これが塀のなかというものなのか。
鳩の巣
ベヘの知りあいにロヘリオの棟へと案内してもらう。身体をよじらないと人とすれ違えないほどの狭い廊下には、鉄格子のついた牢屋ではなく、寝台車の2段ベッドのようなものがズラリと並んでいる。ベッドには、ベニヤ板が打ちつけられていて、なかが見えない。鍵のついた扉には通気孔がわりの丸い穴がぽっかりと開いていた。「まるで鳩の巣みたいだろ」とベヘの知りあいが自嘲気味につぶやく。それにしても暑い。窓もなく、風がまったく通らないから夜も寝苦しいはずだ。これでは鳩の巣のほうがマシではないか。
2階の鳩の巣からロヘリオが顔をのぞかせた。暗闇にまだ目が慣れないためにはっきりと表情がつかめないが、頭にはいつものリセイの帽子があった。それが私にはうれしかった。昼食の網カゴを渡すと、寝床にある皿に移しかえるために顔を引っこめた。しばらくして、階段を降りてきたロヘリオの顔はやはりやつれて見えた。ベヘに言われて、あらかじめ用意しておいた200ペソ札2枚を、握手のときにすべりこませる。彼はまわりに気づかれないようになに食わぬ顔でズボンのポケットにしまいこんだ。熟練の早業だった。
ロヘリオの案内で5人いるというバランコネス出身者を訪ねることになった。別棟に向かうために、ふたたび中庭をぬける。若いころは喧嘩に明け暮れていたというだけあって、ベヘにあちこちから声がかかる。そのたびに立ち話をして小銭を渡している。ドミニカの面会は楽ではないと思ったが、「もっと25ペソ硬貨を用意してくればよかった」とつぶやいたベヘの顔は、どこか誇らしげだった。立ち話を聞いていると、ここには麻薬、窃盗、殺人と、ひと通りの犯罪者がそろっている。刑期も数か月から終身刑まで。ようは、バニ中の犯罪者がここに押しこめられているのだ。小銭をせしめた男たちは、塀のなかまでやってくる行商人から、さっそく煙草やコーヒーを買いもとめる。その様子をまわりの男たちが無言で眺めていた。いく筋もの邪視が交錯していた。
地獄の沙汰もカネしだい
最後に訪ねたフアンカルロスの部屋はまさに特別室だった。部屋は10畳ほどの広さで、テレビと扇風機、それに冷蔵庫まで備えつけてある。ちょうど恋人らしき女性がベッドに腰かけていた。なるほど、そういうことなのかと納得した。必要なものがあれば、敷地内にあるコルマドで買うことができる。昼食は家族が毎日届けてくれる。カネさえ払えば塀の外と同じ生活ができるというわけだ。ベヘが例のように25ペソを渡そうとしても頑として受けとらない。
「カネはいいよ。おまえは、バランコネスからはじめて面会に来てくれた友だちだ。その気持ちのほうがうれしいよ」
カネでは手に入らないものがある。塀のなかの特別室で彼は悟ったのだ。
ロヘリオのほうをちらっと見やったけれど、とくに表情に変化はない。鳩の巣に帰るロヘリオと肩を並べながら、ラジオは聞けるのか、と私はたずねた。「うん。でも、今年のリセイは負けてばかりだけどね……」まるでおまえみたいじゃないか、とは言えなかった。塀のなかを見たあとではなおさらだった。
帰り道、ふたりの口が自然と重くなる。ロヘリオの老母に網カゴを返しに行くまえに、コルマドで休んでいくことにした。椅子に腰かけたとたん、一気に疲れが押しよせてきた。
「どれくらいで出られるかな?」
「…………」
「もう少し、カネを渡してあげればよかった」
「…………」
煙草を吸い終えると、ようやくベヘが口を開いた。
「Asi es la vida(これが人生だよ)」
いつのまにか雲がたちこめ、雨が降りはじめた。周囲の喧騒が雨音でかき消される。別れぎわに「また来てくれ」とつぶやいたロヘリオの寂しげな表情が頭から離れず、いつまでも消えなかった。