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第20回 American Way

2010年11月14日

ラーラ先生と選手の英会話レッスン。ドミニカ共和国サント・ドミンゴ郊外にて。
写真:ラーラ先生と選手の英会話レッスン。ドミニカ共和国サント・ドミンゴ郊外にて。

ベースボール・アカデミー

高校時代、英語の時間が嫌いだった。とりわけ、例題に使用される英文の空疎さにどうしても馴染めず、勉強にも身がはいらなかったから、いつも先生に叱られていた記憶しかない。ひさしぶりに高校時代のことを思いだしたのは、ドミニカで英会話レッスンの様子を見る機会があったからだ。生徒は、17歳から22歳までの若者たち。みんな英語など話したことのないものばかり。これだけなら、日本の英会話教室や学校の授業とさほどかわらない。しかし、出席している生徒全員が野球選手で、クラスが開かれているのが、未来の大リーガーを養成する「ベースボール・アカデミー」だとすれば・・・・・・。

「ベースボール・アカデミー」は、アメリカのMLB球団がドミニカやベネズエラに所有する選手発掘・養成施設である。球団と契約をかわした40人ほどの選手たちが寝泊りをし、野球漬けの毎日をおくる合宿所のようなもの。球団は、練習だけでなく、三度の食事をあたえ、ジムでのトレーニングをほどこし、自分たちの基準にあった優秀な選手だけを選別し、アメリカへと送りだす。これまでロビンソン・カノ選手(ヤンキース)など、数多くのドミニカ人選手たちが、アカデミーを経由して、アメリカへと渡っていったのだった。

MLB球団のひとつであるタンパベイ・レイズのアカデミーは、首都サント・ドミンゴの郊外にある。2009年5月に完成したばかりの、リゾートホテルを思わせる瀟洒な煉瓦造りの建物である。1階には、事務所の他にロッカールーム、食堂、ジム、医務室がある。中央の階段をあがった2階には、4人用のドミトリーが20室あまり並んでいて、ここが選手たちの部屋になる。部屋には、ホテルの客室さながらに、ユニットバスや無線LANが完備しているから、貧しい地域で育った選手などは、「すでにアメリカにいるみたい」と笑うしかない。

なんのための英語?

夕方の4時。英語の初級クラスがはじまった。今日のテーマは過去形を使った会話である。yesterday、last night、five years ago…。単語をスペイン語におきかえるだけでいいので、すぐに自分たちで例文をつくっていく。答えたくてしかたがないと見えて、みんなが一斉に手をあげる。なんとも楽しげな授業風景である。気の毒なのは、午前中の練習の疲れから、睡魔を必死にこらえている生徒。全員がアメリカに行けるわけでもないのに、なぜ、英会話の授業が必要なのか。

こんな逸話が残っている。元レッドソックスのペドロ・マルティネス投手が、まだアメリカに着いたばかりで英語が話せなかったころ。バスにどうやって乗ればいいかわからずに、ホテルまでの長いみちのりをトボトボと歩いて帰ったそうだ。そのホテルでも、シャワーの温水の出しかたがどうしてもわからなかった。それでも、フロントに電話もできずに、一晩中ふるえていたという笑えない話だ。

こんなことがあったからか、選手が野球だけに集中できるようにと、各球団が最低限の英会話を教えるようになった。それだけではない。「これぐらいの英会話が習得できないような選手は、野球でも成功しない」と話すのは、このアカデミーの統括責任者であるエディー・トレド氏。アメリカに連れていく選手の条件を「なによりも頭がよくて、真面目なこと」とトレド氏は語る。スカウトとして、これまでに30人以上の大リーガーをアメリカに送りこんできた経験からのことばだ。英会話の習熟度も選手を選別する際の判断材料になっているのでは、選手たちがおちおち眠っていられないのもうなずけるのだった。

アメリカで生きるために

授業を担当するのはドミニカ人のホセ・ラーラ先生。普段は首都のインターナショナルスクールで英語の講師をしているのだが、そこの給料だけでは食べていけないので、新聞の募集広告を見て応募した。ラーラ先生は、ニューヨークのブルックリンで20年間、O.A.機器の営業マンとして働いていた。選手たちがアメリカに渡っても苦労しないようにと、自分が経験して必要だと感じた英会話を教えることを心がけているそうだ。

ある日の授業でのこと。ホワイトボードには「American Way」というタイトルと一緒に、次のようなことが書かれていた。

  1. Time is money. 時は金なり
  2. Mind your own business. 仕事のことを考えなさい
  3. Save money. ムダ使いはやめる
  4. Pay your debits. (bills) お金を借りたら返すこと
  5. Respect the elder. 目上の人を敬うこと
  6. Keep a budget. 生活費は残しておく
  7. Take a vacation. 休暇をとること
  8. Living alone. ひとり暮らし
  9. Your credit. 人の信用を得なさい
  10. The mail system. 郵便制度
  11. Garbage disposal. 生ゴミは処分する
  12. Making lines. (waiting) 順番をまもること

アメリカではあたりまえのことで、ドミニカでの生活では考えられないこと。対する生徒たちの反応がおもしろかった。すぐには自分たちへのアドバイスとは気づかなかったのだ。当然、質問は意味そのものを問うものが多くなっていく。一つひとつの質問に丁寧に、自分の経験とユーモアをまじえながら答えていくラーラ先生。20年におよぶ異国での生活で、数えきれないほどの失敗を重ねてきたのだろう。ひとつの項目を板書するたびに、そのときの苦い思い出が頭をよぎるのか、ときおり文字を書く手がとまってしまう。私たちには想像もつかないが、ドミニカからアメリカに渡った移民たちにとって、アメリカでの生活に適応していくためには、これらの項目を習得することが必須の条件だったはずだ。

しかし、この項目の一つひとつを習得するたびに、なにか自分のなかの大切なものを捨てていく、そんな喪失感を味わったのではなかったか。幼少期の記憶と結びつき、身体に染みついた習慣をかえることは、皮膚の一部を引き剥がされるような痛みをともなっていたはずだ。英会話レッスンから脱線してまでも、ラーラ先生が伝えたかったこと……。髪と口ひげに白いものが混じるラーラ先生の人生を少しだけ垣間見たような気がした。

「みんなにはぼくのような思いをして欲しくない。あらかじめ知っておけば、する必要のない苦労だからね。君たちは野球に集中しなさい」そんな親心を知ってか、知らずにか、ラーラ先生の「What’s your purpose in T.B. ? (ここにいる目的は?)」の質問に「I want to get the MLB. (大リーガーになりたいから)」と、まだ、顔にあどけなさを残す少年がきっぱりと答えた。