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「湘南」のタグが付いている記事

虹の橋の向こうに届ける二本の詩(うた)

2011年4月10日

最初に飼った犬であり、完全に自分の一部となっていたセナが死んでから、早いもので1年が過ぎてしまった(命日は2010年4月6日/享年12歳半)。



その前年、2009年の9月下旬、散歩の帰りに道ばたで突然倒れ、それから何回か回復と悪化をくりかえし、約半年の戦いの末、翌年のさくら満開の知らせともに息を引き取った。加齢とともに心臓が悪くなっていて、と同時に重度の貧血(結局原因は不明/血が極度に薄くなる)を起こし、最後は黄疸も出て、本当の最後に1回大きくむせって、生体反応が停止した。集合させたわけではなかったのに、私たちや獣医さんも含めて、合計6名ものセナと関係が深い方々に見守られながら、自宅での最後だった。

死んでからというもの、やはりその事実に真正面から向き合うということを、私は何となく避けてきた。また、自分の一部を失ってしまったわけだから、心身ともにリハビリも必要だった。そしてひとつの区切りである一周忌を迎え、私自身も区切りをつけようと思い、そう決断してみたら、なぜか無性になれていない詩なんかを書いてみたくなった。それが今回書いた「ぼくはなにもいらないよ」と「やっぱり、ほんとうは」である。
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大震災後、豪雨のなかの初散歩

2011年3月25日



大震災から2週間が経過した。日に日に増える死者・行方不明者の数。連日連夜、心を痛ませる報道が続いている。そして、日本のみならず、世界中が心配しながらその動向を注視せざるをえない福島第一原発の事故。それは私も同様で、発生してから注水作戦や電源回復のためのケーブル敷設作戦など、刻々と変化する状況を、計画停電のなか、かたずを飲んで見守っている。

微量ながらも放射性物質が大気中に確認されてから、すぐに継続的に週間天気図と当日天気図を見て、天候はもちろん、風向きや風速をチェックしている。ときには、事故現場から湘南までつながる地点数か所をチェックし、発表されているさまざまな情報と照らし合わせながら、いろいろ考察してきた。

なぜそんなことをしていたのかというと、それは必ず近々に訪れてしまう「雨のなかの愛犬との散歩」という事態に備えるためである。

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大型犬を飼う私たちは災害弱者の一員

2011年3月15日

まさにこの原稿を書きはじめたときにそれは起こった。M8.8と(その後、M9.0に修正)いう国内観測史上最高のエネルギーを記録した「東北地方太平洋沖地震」である。幸い、私たちには被害がなく、長周期の揺れに翻弄されているときは、人間の方は立ち上がってすこし緊張していたが、うちのアンディは驚きもせずに、半分寝ぼけマナコでこちらを見ていた。大物なのか、能天気なのか、ただ地震探知犬になれないことだけは確かだろう。まあ、こちらの様子をよく見ている犬だから、私たちの緊張感が著しかったら、おそらくアンディも同じように緊急事態らしい行動をとったことだろう。

そしてひとまず揺れが収まったところで、私と相棒の女性は近所の犬友だちに連絡した。昼間はひとりぼっちでお留守番しているはずのJちゃんのパパにだけ、奇跡的に携帯電話がつながり、ほかの人にはもうすでにつながらなくなっていた。彼に合鍵がどこかに置いていないか訪ねたが、残念ながら置いてないということなので、私はとりあえず様子を見るために、すぐに自分の引き綱(リード)を持って、歩いて3〜4分の彼の家に走った。

外にはかなりの人が飛び出していた。呆然としている外国人の男性、子どもを抱え不安そうな表情でクルマのドアを開けて座りこんでいる若いご夫人、ガチャガチャという割れた食器を片づける音も耳に飛びこんできた。そして緊張しながら、彼の家の敷地に入り、窓からなかの様子をうかがった。しかしカーテンが閉められ、暗い部屋の中はほとんど見えず、しばらく目を凝らしてみていたが、犬影が動く光景も見ることはできなかった。心配になったが、本棚や食器棚が倒れている様子はなかったので、仕方なく家に戻った。

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刺激的な散歩は信頼関係を築くもっとも有効な方法のひとつ

2011年2月28日



犬を飼うなかで代表的な行動のひとつが散歩だろう。前回、しつけの本質が信頼関係にあることと、子犬のうちにしっかりと目をあわせることについて記したが、日々行わなければならない散歩においても、それを育むチャンスが無数に転がっている。飼い主はそのチャンスを見逃さないようにすることはもちろん、積極的に活かしていくぐらいの心構えでいたい。

たとえば、私がいくら在宅勤務とはいえ、夜に散歩をしなければならないときが当然訪れる。まだ「セナ」が生後半年ぐらい、外へ散歩するようになってからそれほど月日が経っていないころ、その日はいつも夕方に訪れる海に夜遅く行った。夜の海の散歩キャリアはほとんどなかった。街灯があるとはいえ、そこはやはり暗く、場所によっては漆黒の闇が広がり、波の音が響いていた。もちろん人もおらず、街中とは違い広がる景色が何よりも広々としている。

「いつもと違う!」

まだ少年のセナはあきらかに戸惑っていた。誰もいないのをいいことに私はそこでリリースしたが、いつものようには走り出さない。セナはその場に佇み、鼻を盛んに動かし、周囲を見渡して動かなかった。私はゆっくりと歩き出し、「おいで」とセナを呼んだ。彼はシッポを入れたままゆっくりとついてきた。私は「ホレ、ココは」と言いながら建てられているそばの竹柵の一部を指差した。彼はやっと鼻を近づけ本格的にチェックしはじめ、それからシッポをゆっくり上げながら、周辺を徘徊し始めた。私は闇がもっと濃い方に移動して、そこからまた彼を呼んだ。彼は早足で私のところに来た。そして彼を撫でながらこう呟いた。
「ほら、いつものところだよ、怖くないだろ」
それからはもう普段と変わらないセナに戻っていた。気ままにいろんなところのにおいを嗅ぎ、芝生でお腹を出してゴロゴロした。

セナにとって夜の海はほとんど初体験のようなもの。やはり恐怖や不安が彼を襲っていたに違いない。そのとき、私は上手くリードすることができたと思う。

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「しつけ」の本質は信頼関係とアイコンタクト

2011年2月14日



犬を飼う上で、誰もがいちばん悩んだり、苦労したり、エネルギーを費やすことは、やはり「しつけ」だろう。「しつけ」に成功すれば、愛犬とのドッグライフはそれこそ快適そのものとなり、うまくいかなければ、逆にストレスに満ちた日々を過ごすハメとなる。「しつけ」の成否は飼い主の最大の関心事であることに異論を唱える人はいない。

昨年亡くなったセナは、私にとって生まれて初めての飼い犬であることは前にも述べたが、当然、私が犬をしつける経験も初めてとなる。だから本や雑誌、ネット、それに犬飼いの先輩など、いろいろなルートから自分たちで情報を集め、勉強し、そして実践した。なかにはうまくいかないこともあったが、セナのしつけは総じて順調に進み、最終的には周囲の多くの人も認めてくれるほど、「しつけ」が行き届いた、誰からも愛されたいい犬になったと自負している。また、その経験を通して、私自身も多くの発見をした。

最大の発見は「信頼関係=絆」というのは、本当に大切にするべきものであり、尊いものなのだということを、生物の種を超えた、犬との関係性を介して深く再認識させられたことである。「信頼関係が大切」など改めて声高に言うのも照れくさく、いい大人が何を今さらということもわかっているが、本当に重要なのだと思ってしまったのだから仕方がない。これは人として生きていく上で不可欠なことであり、犬にとってもまったく同様である。「信頼関係=絆」がひとつもない状態で生きていくことは、生きている意味や価値の多くを失っていると言ってもが過言ではないかもしれない。私はこのことを明確に認識してしまったからこのブログも始めようと思ったのであり、タイトルも「犬ごころ、人ごころ」に落ち着いた次第だ。

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愛犬家への警戒は怠らない

2011年1月28日

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「犬ごころ、人ごころ」写真館① 湘南の夕焼けとワンコたち

2011年1月11日

▶おうちに帰ろ

ここまでちょっとかたいテーマが続いたので、今回は趣きを変えて、このブログのもうひとつの柱である写真を少し見ていただこうと思う。

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ドッグイヤー/冷徹な運命②

2011年1月5日

悔いがない幸せな一生を私がまっとうさせる

まだ生まれて間もないのに、こんなに幼く可愛いのに、自分より先に逝ってしまうという重い現実、冷徹な運命。前回このことについて書いたが、なにも楽しい子犬との生活が始まったばかりなのに、そんな悲しいことを思う必要なんて全然ない、考えたくもないと普通は言いたくなるだろう。お前はなんてネガティブなヤツだという非難も聞こえてきそうだ。それは至極当然のことで、わたしだってそう思う。シンプルに眼前のカワイイ子犬を飼い、イヌとの生活を楽しんでいくべきだと思う。

ただ子犬を飼う初心者だった私の場合は、自分で信じられないぐらいカワイイと思ってしまい、おまけにコイツを失いたくないと必要以上に強く強く思ってしまったから、かえって私はこの冷徹な運命を、早い段階で明瞭に視界に捉えてしまったのかもしれない。

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ドッグイヤー/冷徹な運命①

2011年1月5日

最高の出会いが、別れへのカウントダウン

あらためて書くほどのことではないが、子犬はなぜあんなにカワイイのだろう。この世にこんなにカワイイ存在があっていいものかと、信じられないほどだ。それは別に犬に限ったことではなく、人間の子どもも含めて、どんな動物でも子どもや赤ちゃんはめちゃくちゃカワイイ。しかし同時に、大変な苦労と労力が必要な育児や世話といったのも例外なくついてきてしまうのも事実。それによって精神的にも肉体的にもストレスは確実にたまる。

それでも子犬と過ごす時間は、悦びと輝きに満ち溢れている。そう感じさせてくれるのは、やはりこの圧倒的な可愛さがあるからだろう。言ってみればこの子犬の可愛さは、イタイケな彼らが生存していくために神が与えた能力であり、最大の武器だと思う。この可愛さによって飼い主は飼い犬に対してどんどん愛おしく思うようになっていき、両者の間には深いきずなと愛情が育まれていく。自然の摂理であろう。

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気づきのチカラ

2010年12月30日

基本的に犬は人間の言葉を理解することも発することもできない。「うちの子は言葉がわかるのよ」とのたまう愛犬家もいるし、盲導犬などさまざな使役犬も活躍しているが、それは極めて限定的な事柄に対して、言葉や仕草や状況など、飼い主の複合的要素を犬が見て感じて、その意図を理解したり、あるいは繰り返された訓練の結果だったりするわけで、言葉が示している「人間的」概念を、犬が正確に理解した上での行動ではない。人間と犬は種がまったく異なるわけだから、言葉による意思疎通ができないというのは、自明だ。人間における各国の言語が違うというレベルとわけが違う。

しかし犬を飼ったら、愛犬とのコミュニケーションや意思疎通は不可欠なこと。その困難なことを子犬の頃に行う基本的なしつけの段階から、飼い主は誰もが行わなければならない。

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写真を選ぶ側から撮る側へ

2010年12月24日

はじめに簡単な自己紹介をしておこうと思う。
私は湘南・鵠沼にゴールデン・レトリーバーと暮らしているいい歳をしたオトコである。今年(2010)の春までは2匹のオスといっしょだった。過去形で記したのは、残念なことに最初に暮らし始めた愛犬「セナ」がこの春に他界してしまったからだ。齢12歳と5か月だった。現在はもう一匹の愛犬、8歳になる「アンディ」と、そして長年私の相棒となっている女性とともに、オフィスも兼ねる自宅で暮らしている。

イヌを飼い、いっしょに生活するようになって、あまりに多くのことが変化した。それは表面的なことから内面的なこと、しいてはモノの見方や価値観まで、実に大きな影響を私に与えた。このフォトエッセイはその影響によって得たものやわかったことなどを、お伝えしたくて始めたものである。

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