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虹の橋の向こうに届ける二本の詩(うた)

2011年4月10日

最初に飼った犬であり、完全に自分の一部となっていたセナが死んでから、早いもので1年が過ぎてしまった(命日は2010年4月6日/享年12歳半)。



その前年、2009年の9月下旬、散歩の帰りに道ばたで突然倒れ、それから何回か回復と悪化をくりかえし、約半年の戦いの末、翌年のさくら満開の知らせともに息を引き取った。加齢とともに心臓が悪くなっていて、と同時に重度の貧血(結局原因は不明/血が極度に薄くなる)を起こし、最後は黄疸も出て、本当の最後に1回大きくむせって、生体反応が停止した。集合させたわけではなかったのに、私たちや獣医さんも含めて、合計6名ものセナと関係が深い方々に見守られながら、自宅での最後だった。

死んでからというもの、やはりその事実に真正面から向き合うということを、私は何となく避けてきた。また、自分の一部を失ってしまったわけだから、心身ともにリハビリも必要だった。そしてひとつの区切りである一周忌を迎え、私自身も区切りをつけようと思い、そう決断してみたら、なぜか無性になれていない詩なんかを書いてみたくなった。それが今回書いた「ぼくはなにもいらないよ」と「やっぱり、ほんとうは」である。
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「ぼくはなにもいらないよ」

ぼくはもう、なにもいらないよ
いろんな人からカワイイねとほめられるすてきな首輪も
顔が濡れないようにかざしてくれる傘も

ぼくはもう、なにもいらないよ
あなたたちぐらいグルメで、松阪牛やマグロの中トロ、
手作りのスイートポテトがたまらなく好きだけど

ぼくはもう、なにもいらないよ
フカフカのクッションも、歯ごたえのいい木の枝も
くわえ心地がいいおしゃぶり用のぬいぐるみも

ぼくはもう、なにもいらないよ
押し寄せる波の白いスープに漂いながら泳ぐことも
不安定なボードの上で揺れながら潮風に吹かれることも

ぼくはもう、なにもいらないよ
ちょっと疲れただけだから
ふたりして、そんなに心配そうな顔しないでよ

ぼくはもうなにもいらないけど
最後にひとつだけお願いさせて
かたわらにいて、その時まで、
いや、その時が過ぎても
許される限り、ぼくに優しく触れて、なでていて
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「やっぱり、ほんとうは」

セナ、やっぱり、こわかったかい
慣れ親しんできた“生”とは、なにか違う未知のものがおし寄せてきて

パパ、安心して。そうでもなかったよ
最初に倒れたときはちょっとこわかったけど
それから何回かくりかえしているうちに
ぼくにもわかってきたんだ
なんでも受けいれるセナだぞ、ぼくは
その受けいれる時間を懸命に作ってくれて
パパもママも、ほんとうにありがとう

セナ、ほんとうは、どこか痛かったかい
がまんづよくて話すこともできないから、わたしにはわからないけど

ママ、安心して。そうでもなかったよ
ちょっと血が薄くなっただけだから
それにもう痛みを感じる余裕がないほど
朦朧としていることが多かったから
痛みは感じないよ
ときどき血が増えて
海にも何回か行くことができたのが
その証拠だよ

セナ、結局、苦しかったかい
おまえは気を使ってそういう素振りを見せないから

ふたりとも安心して。それはほんの一瞬だけだったから
でもこれはしょうがないよ
神さまからお呼びがかかってしまったのだから
ぼくはただ、それに従うだけだよ
直接触れ合うことができなくなるけど
ただそれだけさ
これでパパもママも
永遠にぼくのなかにいることになるのだから

私は詩(うた)を書きましたが、相棒の女性はメモリアルの「スライドショー/セナの記憶」を作りましたので、よろしかったらご覧下さい。

Photo
陽だまりのとき:セナが亡くなる約3週間前。介助なしには歩けないほど、すでに弱っていました。この日は天気がいいので、庭で日光浴したときの様子で、ぼくらも庭で仕事しながらふたりで見守りました

Photo
やすらか:このように横になっている時間が日に日に増えていった。そして最後の表情はまさに普通に寝ているときそのものだった