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多文化共生、それとも他文化強制?

2011年3月18日

多文化共生

各種報道によると、第三国定住制度をとおして来日したカレン人5世帯27人は、3月9日、無事に研修を修了したそうだ。今後は本人たちの希望に沿って、三重県鈴鹿市と千葉県八街市で、農業関係の仕事に従事するそうである。本人たちが望むような定住生活をおくれるよう願うばかりである。このほかの地域でも、過疎化と農業の担い手不足に対応するため、海外からの難民を対象に農業研修をおこない、町への定住を検討するところもでてきた。

難民に限らず、在日外国人が増加するなかで、誰にとっても暮らしやすい社会のあり方が求められている。そのためのひとつの標語が「多文化共生」である。「多文化共生」とは、外国人もおなじ地域の構成員であるという視点にたって、対等な立場からの社会参加をうながす仕組みをつくり、互いの文化的差異を認め暮らすことである。カレン難民の研修をおこなった新宿区にも「多文化共生連絡会」というものが設置されている。

他文化強制?

先日、新宿区の担当者や難民支援関係者らが出席し、日本の「多文化共生」を考えるシンポジウムに参加した。そこではスピーカーの一人として、あるビルマ難民が当事者の声を届けるべく登壇した。本人の希望で個人が特定されないようにしてほしいとのことなので、ここではぼかして書くことにする。

その人の話の要点は、漢字がわからないのでローマ字でふりがなをふってほしいというものや、子どもが無国籍になるが、帰化を申請しても受理されるのかわからないので不安だ、というものだった。こうした制度上の難点や当事者のアイデンティティに関わる問題点には真摯に向き合う必要があるだろう。ただ、それよりも私が気になったのは、シンポジウムの最後に、この人が言った次のような「嘆願」である。

「難民と地域の人が仲よくできるように、私たちは次のようなことをしていきたい。例えば、夜中に騒がないこと、ゴミ出しを守ること、地域の清掃に参加したり、環境問題に積極的に取り組むこと。それから日本は高齢化社会を迎えているので、高齢者のために私たちクリスチャンは歌を歌って楽しませてあげたい。日本で暮らしていくので、日本人ことをよく理解しないといけない・・・私たちは命をかけて家族と離れて難民として逃れてきました。日本は難民にとって第二の故郷です。日本人は私たちにとって家族のようなものであり友人です。だから日本人には、難民たちの心の叫びにも耳を傾けて欲しい・・・これからも私たち難民を温かく見守って下さい」

私たちも日本人のことを理解するよう努力するので、日本人も難民のことを理解して下さいというメッセージである。しかし、この場で「ゴミ出しのルールを守ります」、「夜は騒がないようにします」、おまけに高齢者問題や、流行の「エコ」にも取り組みますと言わしめるものは何なのだろうか。

無論、ルールを守ることの大切さを否定するつもりはない。
一抹の違和感をおぼえるのは、「多文化共生」を考えるためのシンポジウムで、マイノリティの立場にあるこの人は、「できるだけ日本人に同化できるように頑張りますので、いじめないでください」と白旗を振っているようにすら思えたからである。日本人が決めたルールに従わなければ、マイノリティは見えないところに排除されるだけである。

そんなことはあたりまえだ、と思われる方も多いかもしれない。しかし、だからこそ、日本の「多文化共生」とは、実は「他文化強制」に陥る危険を常に孕んでいるのではないだろうか。言い換えれば、「多文化共生」とは、マジョリティがマイノリティを一方的に支配するための都合のいい標語になりうるのではないだろうか。

最後に司会者は、「この声を真摯にうけてよりよい制度をつくっていきましょう」と綺麗にまとめて会を締めくくった。しかし、当事者から求められているのは、制度だけではなく、相互理解のための別の枠組みなのではないだろうか。制度の問題に帰結させる限り、「他文化強制」にしかならないのではないだろうか。