清水弘文堂書房マーク 清水弘文堂書房 SHIMIZU KOBUNDO


難民の第三国定住

2010年9月15日

言語化できない記憶と希望

人は、自分の記憶や希望というのを、必ずしもうまく言語化したり、語ることができるわけではないと思う。それが苦難の記憶や、漠然とした将来像ならなおさらである。そんな記憶や希望をあらわす手段のひとつが、絵を書くことである。印象的なものに、「ビルマ軍に殺される父親の姿を描いた子どもの絵」がある(注1)。「本当の弱者」は、語ることすらできないのかもしれない。

だからこそ、絵という形で表現される絶望や希望は、それだけリアリティをもっている。

このふたつの絵は、ともに10歳代後半の青年が描いた絵である。

ひとつは、農作業に精をだしてお金を稼ぎたいという願望が書かれている(右の絵)。キャンプには、NGOが支援する菜園があるだけで、自分の土地として農業を営むことができないし、外で就労することも禁止されている。こっそり外で働いたとしても、日給は約150円とタイ人の3分の1以下だ。もうひとつの絵は、父親が子どもに大学を出させてやりたいと想像している絵だ(左の絵)。キャンプの学校で受けられるのは、基本的に初等教育のみである。高等教育を受けられるものは限られており、若い世代の知的好奇心や野心を満たすことはできない。

第三国定住制度

タイ・ビルマ国境の難民キャンプでは、2004年12月~2005年2月にかけて、全難民の「再登録」作業が行われた。基本的に、この「再登録」をもつものが、第三国定住への申請ができる仕組みになっている(注2)。ビルマ難民の受入国となるのは、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、イギリス、フィンランド、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーといった欧米諸国と、日本である。

第三国定住制度は、祖国(ビルマ)でも避難先の国(タイ)でもない第三の国に難民を再定住させる支援制度である。これは、祖国への帰還、庇護国への帰化とならぶ、難民問題の「恒久的解決策」のひとつとされる。

他方で、この制度の根幹には、難民受入国の負担を他国がシェアするという考え方(burden sharing)がある。つまり、多数の難民を受け入れるタイ政府の負担を、他国が分担するという考えのもと実施される。身も蓋もない言い方をすれば、この制度は、難民の都合ではなく、国家の都合で導入される制度という一面をもつ。受入国にはさまざまな選別基準があるので、難民は希望する国へ自由に行けるわけではないからだ。

この制度が導入されてから、タイからは1年間に平均2~3万人が第三国へ出国し、2010年6月の段階で出国者数は、合計で8万人を越えた(注3)。

忘れてはならないのは、8万人が出国したのにも関わらず、キャンプの総人口(約14万人)に大差はないという事実である。つまり、新たに数万人の難民がタイ側に押し寄せてきているのである。祖国の状況が改善されなければ、意味がない。

それぞれの決意

第三国へ再定住した難民の風のうわさは、携帯電話を通して残された難民にも伝わってくる。フィンランドやアメリカからは、比較的安価な値段で国際電話がかけられるらしい。タイでも携帯電話が安価になってきたので、携帯電話の所持率はここ数年で増えてきた。携帯電話を経由してはいってきた生の情報は、友人を伝わって広がっていく。

そのうわさ話は、悲喜こもごも、さまざまである。アメリカに行ってから、その解放感からか、真夜中に路上で、「自由だー」と叫ぶ人。仕事をみつけないといけないが、結局酒におぼれてしまう人。すでに夢の生活を手にいれている人。ある程度の情報が集まってくると、行きたい国と行きたくない国がでてくる。

レーメー(50歳代・女性、以下いずれも仮名)は、アメリカだけには行きたくないと言う。政府は3か月しか面倒をみてくれないし、英語を話せないから、怖いと言う。それに比べて、フィンランドに行った友人のなかには、もう車を買った人もいると驚いていた。物価の高さには苦笑いしていたが、アメリカよりも、フィンランドの方がいいと言う。そう漏らしていた彼女だが、それから1年後、未婚の娘に孫娘が生まれたことをきっかけに、アメリカ行きを決意した。

ルドゥ(40歳代・男性)は、1988年にタイ側にやって来た。彼は、幼い息子のことを考えて第三国行きを決断した。めずらしいケースだが、ルドゥは、キャンプ外にいる友人からお金を借りて、ノートパソコンを購入した。今のうちにパソコンの技術を習得しておけば、連絡を取り合うことができるし、仕事にも繋がるとも考えているからである。その後、彼は念願のオーストラリア行きを果たした。

第三国へ渡ることの決断は、今の生活と将来の可能性を秤にかけた上での選択である。

ティーレー(30歳代・男性)は、元ゲリラ兵士である。彼は銃をペンにかえてビルマ政府に抵抗している。必死に勉強をした彼は、いまや諸外国にむけてビルマの開発事業の政策提言をしている。しかし、自分が活躍できる場があることに満足しているわけではない。将来、ビルマでのビジネスチャンスをひらくためには、キャンプにいては何もできないと考えている。この機会に海外に行けば、1か月50ドルでも貯金できるといい、小さな蓄積が大きな身を結ぶことを期待している。

しかし、だれもが第三国に将来の可能性を見いだしているわけではない。限られた情報のなかで、見たことも、行ったこともない国での暮らしを、想像することすらできないからである。

ルタン(50歳代・男性)は、第三国には行かないと言い切る。ルタンは言う。「読み書きはおろか地図も読めないし、どうやって物を買うのかもわからない。外国に行くと、人は時間どおりに行動しないといけないんだろう? そんなことはできないよ。自分たちは森のなかでは暮らせるけど、町では暮らせない」。彼は、今の暮らしこそが自分の生活だと認識している。

ルドゥやティーレーが積極的に第三国を目指すように、長期間のキャンプで生活は、その閉塞性を痛感させるのに十分だった。キャンプは、将来の希望をもてない地である。他方で、ルタンのように、キャンプを暮らしの場としてとらえ「根付いて」いる人もいる。当事者が生活と呼ぶのならば、それをたんに支援依存という言葉で片づけることはできないと思う。そして、渡米前のレーメーの判断にみられるように、風の便りは、移住への後押しになったりならなかったりする。レーメーの渡米は、家族で一緒に暮らしたいこと、そして孫娘の将来を案じての決意だった。

注1:渡辺有里子(2006) 『図書館への道――ビルマ難民キャンプでの1095日』 すずき出版 p.5。
注2:このように制限をかけないと、第三国定住が難民の呼び水になってしまうからである。また「基本的に」と書いたのは、その後、現場では新たに登録作業が行われているらしいということと、後からやってきた人が先に第三国へ行ってしまったという話を聞くからである。
注3:Relief Web “THAILAND – IOM Resettles 80,000 Refugees from Thai Camps”。