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「野球」のタグが付いている記事

第22回 愛に苦しむものたちへ

2010年12月12日


写真: フェリンの息子と戯れるペロテロ。アメリカ合衆国、ペンシルバニアにて

元メジャーリーガーの恋

「ドミニカの人たちはラテン系だから人生を謳歌しているんでしょう?」とよく聞かれる。たしかに「いま」という一瞬を激しく生きる彼らは、人生をあますところなく享受しているように見える。しかるに、ラテン的に生きることの辛さやわびしさがある。心を狂わすような恋に身をやつし、終始おいたてられた挙句に、なるようにしかならないと居直ってしまえれば楽であるが、そんなふうに簡単にいかないのが人間というものである。

ひとりの元メジャーリーガーがペンシルバニアのドミニカ人街でくすぶっている。ペロテロ(野球選手)と呼ばれるその男は、元ヤンキースの投手である。といっても、スプリング・トレーニングに呼ばれたときに肩を故障し、そのまま引退してしまったから、公式戦では一度も投げていない。それでも、ヤンキースとのメジャー契約は栄光と挫折をもたらし、その陰影のなかをさまよいながら、手さぐりでたどり着いたのがこの街だった。

野球をやめてからもドミニカには帰らずアメリカにとどまったのは、ドミニカのパスポート所持者がいったん出国した場合、正規に再入国できる保証などなく、これまでに自由契約となった多くのドミニカ人選手たちがそうしてきたからだった。そのときすでに、故郷の島にはふたりの子どもがいたから、そのことも理由のひとつであったと推測する。しかしそれ以上に、彼をこの地に踏みとどまらせたのは、ひとりのプエルト・リコ人女性との出会いであった。ボストン近郊のローレンスに部屋を借りてすぐのころに恋におちた女性がいた。現在の妻である。

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第21回 ことば遊び

2010年11月28日

「昨日、シカゴ・カブスと契約してさ……」。ドミニカ共和国、バニ市
写真:「昨日、シカゴ・カブスと契約してさ……」。ドミニカ共和国、バニ市

マイアミに行く

まんまとだまされてしまった。
週末の夜、いつものように近くのコルマド(食料品や生活雑貨をあつかう小商店)で飲んでいたときのこと。一緒にいたジョニーが「マイアミに行ってくる」と言って席をたった。最初、酔っているのかと思ったが、まだビールは2、3本しか空いていない。マイアミなんて名前のコルマドはこの辺りにはなかったはずだが……。
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第20回 American Way

2010年11月14日

ラーラ先生と選手の英会話レッスン。ドミニカ共和国サント・ドミンゴ郊外にて。
写真:ラーラ先生と選手の英会話レッスン。ドミニカ共和国サント・ドミンゴ郊外にて。

ベースボール・アカデミー

高校時代、英語の時間が嫌いだった。とりわけ、例題に使用される英文の空疎さにどうしても馴染めず、勉強にも身がはいらなかったから、いつも先生に叱られていた記憶しかない。ひさしぶりに高校時代のことを思いだしたのは、ドミニカで英会話レッスンの様子を見る機会があったからだ。生徒は、17歳から22歳までの若者たち。みんな英語など話したことのないものばかり。これだけなら、日本の英会話教室や学校の授業とさほどかわらない。しかし、出席している生徒全員が野球選手で、クラスが開かれているのが、未来の大リーガーを養成する「ベースボール・アカデミー」だとすれば・・・・・・。

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第19回 野球狂出国記

2010年10月31日

ラジオの野球中継を聴くロヘリオ。ドミニカ共和国、バニにて
写真: ラジオの野球中継を聴くロヘリオ。ドミニカ共和国、バニにて

コン・マチェーテの旅

携帯電話に見覚えのない番号から着信があった。ドミニカでは人の電話を借りてかけることが多いから、特に気にもせずリダイヤルのボタンを押す。何度目かの呼び出し音の後で、耳に飛びこんできたのは、2か月前にプエルト・リコに旅立ったはずのロヘリオの声だった。

独特の早口でまくしたてるスペイン語で、なんとか聞き取れたのが、昨日プエルト・リコから強制送還されて、首都に着いたところだという言葉だけだった。再会の約束をして電話を切った私は、無事でよかったと安堵する一方で、「またダメだったのか」と、ロヘリオの悲運になんともやるせない思いが残った。

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第18回 犯人は誰だ!?

2010年10月17日

ジョナタンに抱かれる猫。ドミニカ共和国、バニ市にて
写真: ジョナタンに抱かれる猫。ドミニカ共和国、バニ市にて

消えた魚

その日のレイナの頼みごとは変わっていた。「悪いけど、この魚の重さをマリッサの店で量ってきてくれない?」とビニール袋を手渡された。そんなことならお安い御用……でも、何のために? とにかく、2.75リブラ(約1.24キロ)という数字だけをしっかりと頭に刻みこみ、レイナに伝えた。「アイ!! なんてこと。サンポールが私を騙したわよ!」。

ことの顛末はこうである。つい先ほど魚の行商人であるサンポールが家の前を通りかかった。家のものがみんな出払って、今日はお使いを頼むことができない。サンポールが来たのを幸いに、昼ご飯のおかずにと魚を買うことにした。その時、サンポールは確かに3.5リブラ(約1.58キロ)と言い、その分の金額をレイナは支払ったのだ。魚の入ったビニール袋を台所の流しに置いてから、玄関に椅子を持ち出してフリフォーレス(インゲン豆)の皮むきをしていたそうだ。そろそろ昼食の準備にとりかかろうかというときになり、初めて異変に気づいた。これ3.5リブラもないじゃない、と。

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第17回 コンパドレの仁義

2010年10月3日

ジョルキンの代父のジュニオール(右)は、父親ジョニーのコンパドレ。ドミニカ共和国、バニにて
写真: ジョルキンの代父のジュニオール(右)は、父親ジョニーのコンパドレ。ドミニカ共和国、バニにて

代父母(パドリーノ)選びは慎重に

カトリックが国教となっているドミニカでは、子どもが生まれると洗礼式をおこなう。そのとき、両親と一緒にその場に立ち会うのが代父母(パドリーノ)たち。みんなで祈りを捧げ、水で赤ん坊の身体を清める。この儀式が終わると、ようやく神の子としてこの世に生を受けたことが認められる。洗礼式がすめば彼らの役目が終わるのではなく、その子の成長を実父母とともに一生見守っていく責任を負う。もし両親が経済的に困窮したならば、代父母である彼らが食事を与え、服を買い与えるのだ。

このように重大な責任を負うことになるのだからパドリーノは慎重に選ばないといけない。幼馴じみや友だちであるからといって、安易に選んではならない。大切なことは尊敬できるか否か、信頼できるか否かである。なぜなら、子どもの代父母であると同時に、ことあるごとに自分の相談相手になってくれるのも彼らだからである。こうして選んだ相手とは、洗礼式以降は互いにコンパドレと呼び合い、常に敬意を払って接することになる。

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第16回 代理絵描人

2010年9月19日

ラモンの宿題の絵を描くアビ。ドミニカ共和国、バニにて
写真: ラモンの宿題の絵を描くアビ。ドミニカ共和国、バニにて

宿題はまかせた

学校から帰ってきたラモン(中学2年生)が画用紙を手に頭をかかえている。理科の宿題であたえられた課題は、生物の絵を描いてくること。勉強と名のつくものがことごとく苦手なラモンである。私にタコの絵を描いてくれと頼んだのはいいが、その絵のあまりの稚拙さに「やっぱりいいよ」と、顔には失望の色がありありと浮かんでいる。
どうやってこの難関を突破するのだろう? 向かった先は、友だちのジェウディのところ。1歳年下だが、留年したラモンとは同じクラスだ。彼も画用紙を前にして呻吟中である。ふたりがだした結論は、「多少の出費をともなうがアビに描いてもらうしかない」。

22歳のアビは、父親と姉と3人で暮らしている。それまで話したことはなかったが、いつも同年代の友だちとつるまずに、年下の少年たちとポーカーをしている姿が印象に残っていた。ラモンたちと訪ねた私が日本人と知るや、「核兵器が世界で初めて使用されたのは広島の原爆だ」とか「新幹線は時速が200キロ以上もでるんだ」などとラモンたちに話して聞かせるのだ。それ以降も街角でアビを見かけると、どこから仕入れてくるのか、世界の時事ニュースや科学技術の話題を近所の少年相手に話しているのにでくわすことになる。

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第15回 2010年 ドゥアルテ通り

2010年9月5日

ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。
写真: ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。

植民地支配の遺産

ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、J.F.ケネディ。これらはすべて、首都サント・ドミンゴをはしる通りの名前である。なぜドミニカで歴代アメリカ大統領の名前が使われるのだろうか。

話は1905年までさかのぼる。アメリカがカリブ海地域を支配する拠点としてドミニカを選び、借金の形(かた)に関税権を召しあげた。これを機に資本家たちがやって来るようになり、それまでスペイン系によって独占されてきた金融業やサトウキビプランテーションを次々に買収した。サント・ドミンゴの区画整理がおこなわれ、通りの名前がつけられたのもこのころである。

すでにキューバ人によって伝えられていた野球が、この時期にドミニカ全土へと広まったのもこのような事情が背景にある。その時代から1世紀以上の時間が経過したが、通りの名は当時のままだ。このことは、今なおドミニカが、アメリカによる政治経済的支配下にあることを物語っている。

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第14回 エスペランサ―希望の虫―

2010年8月22日

退院後、ジーシーと聖書を眺めるレイナ。ドミニカ共和国、バニ市にて
写真: 退院後、ジーシーと聖書を眺めるレイナ。ドミニカ共和国、バニ市にて

母の入院

2メートル近い長身で100キロを超える大男のジョニーが泣くのをはじめてみたのは、母親のレイナが肺がんに侵されているのを知ったときだった。1年くらい前から、ときおりレイナが「最近右足のつけ根に痛みが走ることがあってね」とこぼすようになっていた。それでも笑顔で話す口振りに、家族の誰もが深刻には受け止めていなかった。

山奥の村で生まれ育ち、一度はハリケーンで家を失いながらも、新しいバリオで3人の子どもを育てあげたレイナにとって、これぐらいのことは気にも留めていないようだった。しかし、次第に米を受けつけなくなり、日増しに痩せていく姿を見て、心配は確信へと変わった。今にして思えば、1年前からすでに病が彼女の身体を蝕みはじめていたのであろう。大好きだった幼稚園の給食婦の仕事を休み、毎晩のように教会に通うようになったとき、ついに夫のラファエルは金策に走り、首都の病院で検診を受けさせる決断をした。

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第13回 ドミニカンヨルクたちの週末

2010年8月8日

週末の夜を楽しむドミニカンヨルクたち。アメリカ合衆国、ペンシルバニア
写真:週末の夜を楽しむドミニカンヨルクたち。アメリカ合衆国、ペンシルバニア

ドミニカ通り

アメリカ合衆国ペンシルバニア州の小さな町の片隅に、ドミニカ通りと呼ばれる一角がある。「サボール・キスケーヤ」「スーペルメルカド・ドミニカーノ」といったドミニカにちなんだ看板を見ないでこの界隈をやり過ごすことはできない。人口1万5000人あまりの町に3000人ものドミニカ人が暮らしていると言われてもいまいちピンとこないけれど、この通りを歩いてみると、なるほど、たくさんのドミニカ人がこの町に暮らしているのだと実感できる。ドミニカ料理店からはあのコリアンダー独特のかおり、隣の店をのぞけば、ドミニカの家族に送金をする人たちの列、道路をはさんだ向かいにはドミニカ料理の食材を取り揃えたスーパーがあり、本国へのノスタルジーをかきたてられる。無機質なアメリカの町並みも、ラテンのアクセントが少し加わるだけで、いきいきとした表情を取り戻す。

この町にふたつしかないドミニカ系ディスコのひとつがこの通りにある。「カンティーナ(酒場)」という名のその店は、ドミニカ人の習慣にあわせて、木曜日から日曜日の夜だけ開店する。カウンターで客の注文をうける女性がドミニカ系なら、やってくる客もこの町に暮らすドミニカンである。土曜日の深夜0時。客で埋めつくされた店内には香水のにおいと人いきれが充満する。ドミニカ音楽の最新のヒットチャートが流れ、雰囲気がさらにヒートアップ。2時半の閉店まで、さあこれからが本番といわんばかりだ。

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第12回 気まぐれな同居人

2010年7月25日

各家に向かって延びる電線。ドミニカ共和国バニ市にて。
写真: 各家に向かって延びる電線。ドミニカ共和国バニ市にて。

すっといなくなる同居人

「セ・フエ・ラ・ルー(電気がいっちゃった)!!」この声を聞くと、私は使っていたパソコンの電源を落として、パティオ(裏庭)に出る。一日に3回はやってくる停電の瞬間。ドミニカにも停電を表すスペイン語の単語はあるのに、電気に人格を持たせて「いっちゃった」と表現する言い方を私は気に入っている。

夜遅くには帰ってきて、明け方に出ていくことが多いから同居人のようなものだ。しかし、この同居人は気まぐれだ。昼の3時ごろにやってきて、夕方6時を回ったころにはふたたび出かけていく。そうかと思うと、別の日には昼前に1時間ほど顔を見せて、すっといなくなる。ドミニカ人男性の生活スタイルに似ているから、いっそのこと電気というスペイン語を女性名詞から男性名詞に変えればいいのにと思ってしまうほどだ[1]

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  1. [1]スペイン語の名詞には、男性と女性の性別がある。

第11回 カクーの生涯

2010年7月11日

ここがカクーの定位置だった。ドミニカ共和国バニにて
写真: ここがカクーの定位置だった。ドミニカ共和国バニにて

アポード(あだ名)

ドミニカで知り合いと出会った際にかわす挨拶は少し変わっている。日本だと「こんにちは」あるいは、「ご無沙汰しています」といったところだろうが、ドミニカではまず相手の名前を呼ぶのである。例えば、「ベヘ!」「マランガ!」といったような挨拶がかわされる。ベヘは「年寄り」という意味のドミニカン・スパニッシュ。マランガは「太っちょ」くらいの意味のあだ名である。ではどのようにあだ名をつけるのかというと、やはり身体的特徴から名づけられることが多い。聞くところによると、子どものころに名づけられたのが、そのまま現在にまで至っているというのがほとんどだ。

「カクー」というのは、ヘルメットを表す「カコ」というスペイン語からきている。ようするに「ヘルメットみたいに大きな頭をしているやつ」という意味である。日本で言うところの「福助」だ。こんなあだ名をつけられると、気持ちのいいはずはないと思ってしまうのは、繊細すぎる日本人の感覚で、ドミニカではむしろあだ名をつけられないことのほうが悲しい。

ドミニカには、日本のタロウやヒロシのように無数のホセやペドロが存在する。そのため、噂話をするときに「ホセがねぇ」といっても、まず「どのホセが」というところから説明しないといけないほどだ。ところが、ひとたびあだ名で呼ぶことで、そのほかのホセとは区別され特別な存在になる。また、あだ名をつけられる人は、良くも悪くも人びとのあいだで話題にのぼる頻度が高い。カクーもそのような人たちのひとりであった。

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