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「紛争」のタグが付いている記事

在日ラオス人たちの新年

2011年5月15日


写真:バーシーと呼ばれる健康や安全を願う伝統的な祈祷式のようす

ピーマイ

「あけましておめでとう!!」

先日、在日ラオス人たちのピーマイ(新年)のお祝いに、知人たちと一緒に参加させてもらった。
2月が中国の旧正月にあたるように、ラオス、タイ、ビルマなどでは、4月中旬が旧正月にあたる。現地では、1月よりも4月のピーマイが盛大に祝われる。ただ、その時期はたいてい平日なので、日本など他の国にいる人たちは、時期をずらして土日や連休に新年のお祝いをする。

兵庫県で毎年行われているピーマイは、西日本で暮らすラオス人たち数十から100人ちかくが参加した。遠路、広島から参加している人もおり、みんながとても楽しみにしているイベントであることが伺える。

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ビルマ難民キャンプが閉鎖へ!?

2011年4月15日

難民の帰還は可能なのか

いくつかの報道機関によれば、今後、タイ政府は難民の帰還を促すとともに、ビルマ難民キャンプの閉鎖を検討しているという[1]。むろん、難民が帰還するには時期尚早だと思われるが、送還計画がでてくることじたい、驚くべきことではない。というのも、ここに至るまでの伏線があったからである。

まず、過去にも送還計画はもちあがっており、機会があれば難民を送還し、その数を減らすというのがタイの基本方針だからである[2]。これを助けるのが、第三国定住制度の導入だった。ビルマ難民に先立つインドシナ難民のケースでも、第三国定住制度が難民数の減少とキャンプ閉鎖を促した。

そして、ビルマ政府が形式的にでも、「民主化」を進めたことである。これは難民の送還にむけた格好の口実となる。ビルマでは、11月の「総選挙」をうけて、2011年1月31日に議会が招集され、3月30日に新政府が発足した。これにともない軍政である国家平和発展評議会(SPDC)は解散した。新大統領には、SPDCのタンシュエ議長の側近であるテインセインが就任した。以前の記事で書いたように、これは形式的な「民政移管」であり、ビルマ政府にとっては既成事実をつくることが重要なのだ。政権の内実に変わりはない。

ただし、インドシナ難民のときと異なると思われるのは、新たに数万人単位で移民・難民がビルマからタイへ流入していることである。このため、新たにキャンプに流入した難民の登録はされておらず、誰がキャンプの成員かどうかさえ、はっきり把握されていない。

こうした事情から、ただちに難民の送還が実施されるとは考えられないが、この先20年間もこのままの状態であるわけもないだろう。では、どんな顛末が考えられるのだろうか。

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  1. [1]Irrawaddy(イラワディ誌) Time for Refugees Go to Home? (April 7 2011)
    Democratic Voice of Burma(ビルマ民主の声) Refugees fearful of Thai warning (April 11 2011)
    Asahi.com(朝日新聞オンライン) ミャンマー難民キャンプの閉鎖検討 タイ政府、帰国促す(2011年4月11日)
    Democratic Voice of Burma(ビルマ民主の声) Thailand rues refugee ‘burden’, plans return (April 12 2011)
    いずれの記事にも最終アクセス日は、2011年4月15日。
  2. [2]詳しくは拙稿 「タイの難民政策」『タイ研究』9号を参照。

震災によせて

2011年4月8日

今回の震災で被災された方に、心からお見舞い申し上げます。

未曾有の大災害から、もうすぐ1か月が経過しようとしている。いまだに被害の全容すらつかめずにいることへのもどかしさとともに、大災害に対する無力さを痛感している人も多いかもしれない。
震災をとおして目の当たりにしたのは、何十万人規模にもおよぶ「難民(困っている人)」である。

正直、2010年1月12日に起きたハイチの地震では、「他人事」だった震災も、今回はどこか「当事者」の意識をもって経緯を見守っている自分に気がつく。それは、流れてくる映像や被災状況があまりにもショッキングだったからだろうか。それとも、「国民」としての意識がそうさせるのだろうか[1]

海外では、「規律正しい日本人」に賞賛の声があがっているらしい。しかし、レベッカ・ソルニットが著書、『災害ユートピア』で紹介しているように、災害時に短期的にでも助け合いが生まれるのは、日本に限ったことではない。

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  1. [1]ハイチの地震では、23万人が死亡、150万人を超える人が住居を失ったという。人の命を人数ではかることはできないが、改めてその規模に言葉を失う。(窪田暁 2010年3月13日 「大地が震動するとき―ハイチとドミニカの関係―」を参照)

多文化共生、それとも他文化強制?

2011年3月18日

多文化共生

各種報道によると、第三国定住制度をとおして来日したカレン人5世帯27人は、3月9日、無事に研修を修了したそうだ。今後は本人たちの希望に沿って、三重県鈴鹿市と千葉県八街市で、農業関係の仕事に従事するそうである。本人たちが望むような定住生活をおくれるよう願うばかりである。このほかの地域でも、過疎化と農業の担い手不足に対応するため、海外からの難民を対象に農業研修をおこない、町への定住を検討するところもでてきた。

難民に限らず、在日外国人が増加するなかで、誰にとっても暮らしやすい社会のあり方が求められている。そのためのひとつの標語が「多文化共生」である。「多文化共生」とは、外国人もおなじ地域の構成員であるという視点にたって、対等な立場からの社会参加をうながす仕組みをつくり、互いの文化的差異を認め暮らすことである。カレン難民の研修をおこなった新宿区にも「多文化共生連絡会」というものが設置されている。

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信仰の世界 2

2011年2月16日

鶏骨占い。本ブログ「信仰の世界」を参照
写真: 鶏骨占い。本ブログ「信仰の世界」を参照

「私は○○人(民族)です」や「私の宗教は○○教です」という意識は、彼らにとっては、必ずしも自明ではない。というのも、こうした当事者の帰属意識は、「ただひとつ」とは限らないからである。例えば、「仏教徒でありアニミスト」と表明したり、クリスチャンと自称するが教会には行かず、アニミズムに基づいた伝統行事に参加することもある。このように、当事者が表明したり実践したりするレベルでは、その「信仰」をクリアにわけることはできない。

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信仰の世界

2011年1月30日


写真:2008年、サイクロン「ナルギス」がビルマを襲った1か月後に開催された集会のようす

精霊への畏怖

カヤーの人びとには、山・森・木・水・大地などに宿る精霊と、自然への畏怖にもとづく信仰がある。ビルマの「ナッ」と呼ばれる精霊への信仰に似て、カヤーの人びとは森羅万象に精霊たちが宿ると信じている。これらの精霊は、定期的に供物を捧げなければならないものと、病気や災害といった不測の事態に対応するために捧げるものに大別される。これを怠ると、病気になったり、農作物が不作になったりとさまざまな災いが生じるとされる。

精霊への畏怖は、カヤーの神話に基づいている。その神話によれば、すべての人間(カヤー)は、「イリュプ」と「ケプ」という2つのグループにわかれていた。「プ」とは人びとないしは集団を意味し、「イリュプ」と「ケプ」は、それぞれ「イリュの人びと」、「ケの人びと」という意味である。

これら2つの集団の誕生は、ピトゥルモという神が、人間と世界を創造した神話に由来する。それによれば、人間は創造神から世界を与えられたが、次第に自己中心的で欲深くなってしまった。そこで創造神は、人間を戒め悪い者を罰するために山・川・木・森といった自然界に宿る悪い精霊を人間の世界へ送った。この結果、人間たちは創造神と自然界の精霊を慰撫する必要に迫られた。そこで、創造神を敬う人びととしての「イリュプ」と、自然界に宿る精霊を慰撫する人びととしての「ケプ」という集団が誕生したという。しかし、キリスト教や仏教の伝来によってアニミストが減少するにともない「イリュプ」と「ケプ」の区分も、廃れてしまい厳密ではなくなったとされる。

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難民キャンプにプライバシーはあるのか?

2011年1月15日

難民キャンプと村落は一見すると見わけがつかない。住居が不自然に密集しているところからは、そこがキャンプであることを推察することができるかもしれないが、難民自身がそこを「村」と呼ぶことがあるように、生活感があふれている。

キャンプの住居は高床式で、木材と竹で骨組みをつくり、壁と床は薄く裂いた竹でしつらえる。壁も床も薄いので、床は骨組みの部分を歩かないと抜けてしまいそうになることもある。屋根はユーカリの葉を編みこんだものを重ねたもので、2~3年に一度張り替える。こうした家の構造から、日中は外に比べて涼しく感じる。家のつくりや間取りはそれぞれである。

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日本との関わり(1)

2010年12月21日


写真: タイ北西部のメーホンソーン県の中心地から南へ約60キロ下ったクンユアムという街には、インパール作戦から撤退した日本軍の遺物を収集した博物館がある。この博物館では、タイ人のある警察署長が個人的に収集した遺物が展示されている。タイのカンチャナブリという街には日本軍の残虐行為を記録した博物館(JEATH戦争博物館)がある。対照的にこの博物館は、日本兵と現地の人びとの友好関係を強調するつくりになっている。

日本軍の記憶

タイ国境で難民として暮らすカレン系の人びとと、日本人のあいだには、古くからの関わりがあった。それは第二次世界大戦までさかのぼる。

調査をしていると、第二次世界大戦中の話を聞くことがある。ビルマは、1942年から1945年まで日本の占領下にあった。それまでビルマはイギリス領で、カレンやカレンニーの人びとは、イギリス側について日本軍と戦った。

興味深いのは、当時そこに居合わせた世代に限らず、その次の世代、さらにまた次世代も戦争の話を伝え聞いていることだ。負の遺産というものは、加害者側は記憶の彼方にやることができても、被害者側には語り継がれ、いつまでも頭にこびりつくのだろうか。そして、こんな風に難民としての経験も語り継がれるのだろうか、とふと思う。

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ビルマの「転換点」

2010年11月30日

「総選挙」とアウンサンスーチー 氏の解放

2010年11月のビルマでは、歴史に残る大きな2つの出来事があった。

それは、20年ぶりの「総選挙」と7年半ぶりにアウンサンスーチー氏が自宅軟禁から解放されたことである。スーチー氏は、2度の解放期間をはさんで合計3回、1989年からのべ15年間も自宅軟禁にあった。

この2つの出来事が深く印象に残ったのは、「総選挙」を実施する体制への「不信」と、解放後に国民がみせたスーチー氏への「信頼」が対照的であったからである。

さんざん指摘されているように、11月7日に20年ぶりに行われたビルマの「総選挙」は、問題含みだった。そもそも、選挙に先立って行われた憲法の承認をめぐる「国民投票」や、その結果、「承認」された憲法は、現在の軍事体制を「合法的」に、民政の名のもと継続させるためのものであった[1]。選挙結果は、誰もが予想したとおり、現政権よりの政党の大勝におわった[2]。こうした事情から、この「総選挙」は茶番とされ、体制への「不信」を改めて浮き彫りにするものになった。

一方で、11月13日に解放されたスーチー氏への支持と期待は、「総選挙」のそれとは対照的だった。解放された当日や、翌日の演説には、数千人とも数万人ともいわれる多くの人が駆けつけた。はっきりとした口調で明晰なメッセージを発する彼女を頼もしく思った人は少なくないはずである。体制への「不信」に対して、国民の彼女への「信頼」と、彼女が「信頼」する国民が、これから具体的にいかにビルマを変えられるのかはわからない。それでも、そのためのヒントはスーチー氏の演説にあると思う。

スーチー氏の演説については後で触れるが、今回は、ビルマ体制への「不信」をいかに「信頼」へと変えられるのか、その可能性について、さまざまな視点から考えてみたい。

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  1. [1]新憲法の中身の解説は、根本敬(ビルマ市民フォーラム運営委員、上智大学外国語学部教授)「はじめての方々への解説」を参照。
  2. [2]ALTSEAN-BURMA(Alternative Asean Network on Burma)による統計を参照。

【番外編】大野更沙さんブログ「困ってるひと」

2010年11月15日

大野更紗「困ってるひと」

大野更紗さんが、ポプラ社・ポプラビーチで連載している「困ってるひと」のブログを紹介します。大野さんは、免疫系の難病を患う「医療難民」で、ビルマの「毒」にやられてしまった「ビルマ女子」。

ブログで綴られている「難民」としての当事者の経験は、大過なく暮らす私たちの生活とは、はっきりいって別世界。経験したものしかわからない壮絶さが垣間見える。しかし、大野さんがツイッターやブログで提起する問題を丹念におっていくと、彼女が経験する「この世の地獄」は、決して他人ごとではないかもしれないと思えるようにもなってきた。

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難民とタバコ

2010年10月31日

この絵や9月15日の記事に掲載した絵は、「モーニングスター」という若者が結成したグループの活動の一環として描かれた。
写真: この絵や9月15日の記事に掲載した絵は、「モーニングスター」という若者が結成したグループの活動の一環として描かれた。難民が組織するグループや団体は、フォーマルなもの、インフォーマルなものをあわせると、30以上にのぼる。「モーニングスター」はインフォーマルな部類にはいる。

嫌煙

禁煙や嫌煙は、世界的な潮流である。

「タバコには百害あって一利なし」という考え方は、難民にも浸透している。ただ彼らは、金銭的な問題から、タバコを日常的に吸っている人はそれほど多くない。かわりに、安価な葉巻や、タバコ入りのビンロウが嗜好されている。どちらも手に入りやすいので、抵抗はない。タバコを吸う女性は少ないが、ビンロウは男女を問わず嗜好されている。

しかし、支援の一環としておこなわれる「健康増進」「嫌煙教育」が功を奏してか、タバコへの忌避意識は高まりつつあるように感じられる。

ムプレ(20歳代・女性)は、半年前にシャン州から来たばかりの男性と結婚して、アメリカ行きを待っている。この男性は、ムプレが「タバコを吸うな、酒を飲むなと怒るから大変だ」と愚痴をこぼす。彼女の「禁煙ファシスト」ぶりに辟易した彼は、「それなら結婚しなかったのに」とぽつり。それを聞いた彼女は、「いまは女性が強いのよ」と得意げである。こんな「逆転」も、教育の「効果」であろう。

ただ、嫌煙観の「受け取られ方」は、やや教条的で極端な場合もある。
というのも、喫煙と飲酒は、社会問題となっている家庭内暴力(DV)とリンクしてイメージされることもあるからである。

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境界をこえて

2010年10月15日

国境付近からみるビルマ東部の国境地帯
写真: 国境付近からみるビルマ東部の国境地帯

「想像してほしい。難民は、こんなにも続く森のなかを歩いてここまでやってくるんだ。ここから見えるどこかにも国内避難民がいるんだ」

コーレーは、目を細めながら、彼方まで続く山々を指して言う。
こうして眺めていると、国境というものの恣意性をあらためて実感する。それと同時に、果てしなく続く山と森のなかで生きる人びとのたくましさに驚かされる。

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