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「野球」のタグが付いている記事

第24回 チチグアと少年

2011年1月16日


写真: あり合わせの材料でチチグアをつくるラモン。ドミニカ共和国、バニ

カリブの風にのって

バリオの人たちがセロ(丘)と呼ぶ場所がある。なんてことのないハゲ山で、でこぼこの岩がいたるところでむきだしになっている小高い丘。乾季には干あがってしまう小川を渡り、子どもたちが草野球に興じる原っぱを抜けるとなだらかな坂の入口に出る。そのあたりはバリオの人たちのゴミ捨て場と化していて、いつも2、3頭の牛がゴミの山に鼻先を押しつけてエサを物色している。私は息をとめて悪臭の漂う一帯をやり過ごし、そこら中に散らばっている牛糞に足をすくませながら頂上をめざす。

これまで何度セロへと足を向けただろう。調査にいきづまるとここに来た。頂上までのぼって腰をおろすとここちよい風がやさしく頬をなでて、疲れを遠くに運び去ってくれる。眼下に広がるバリオはそのなかにいると息苦しかったはずなのに、こうして全体を見わたしていると、愛しく思えてくるのが不思議だ。なにより坂道ダッシュをしている野球少年のほかには誰もやって来ないのがいい。いつのまにかここが調査地で唯一ひとりになれる安息の場所となっていた。

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第23回 勝利か死か

2010年12月26日


写真: 命を賭した闘い。ドミニカ共和国、サント・ドミンゴの闘鶏場にて

街角の闘鶏場

「ブランコ(白)、ブランコ!」「アスール(青)、アスール!」
試合開始のベルが鳴っても、観客席の賭け金を煽る声はやまない。最前列に陣取ったオヤジさんは腕組みのまま、一点を凝視してうごかない。まのびした実況の声が、ガジェータ(駄菓子)売りのかん高い声に折り重なる。その直後、首根っこを押さえつけられ、踵で蹴りあげられた鶏の悲痛な叫び声が、会場の怒号のなかをぬって私の耳にまで届いた。

その日、首都郊外の下町にはじめて足を踏みいれた。闘鶏を見るためである。バスを2台乗り継ぎ、教えられたところで降りる。来た方向に少し歩いて、ピカ・ポージョ(中華料理店)の角まで来たら左に曲がるように、たしかにジョアンはそう言った。

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第22回 愛に苦しむものたちへ

2010年12月12日


写真: フェリンの息子と戯れるペロテロ。アメリカ合衆国、ペンシルバニアにて

元メジャーリーガーの恋

「ドミニカの人たちはラテン系だから人生を謳歌しているんでしょう?」とよく聞かれる。たしかに「いま」という一瞬を激しく生きる彼らは、人生をあますところなく享受しているように見える。しかるに、ラテン的に生きることの辛さやわびしさがある。心を狂わすような恋に身をやつし、終始おいたてられた挙句に、なるようにしかならないと居直ってしまえれば楽であるが、そんなふうに簡単にいかないのが人間というものである。

ひとりの元メジャーリーガーがペンシルバニアのドミニカ人街でくすぶっている。ペロテロ(野球選手)と呼ばれるその男は、元ヤンキースの投手である。といっても、スプリング・トレーニングに呼ばれたときに肩を故障し、そのまま引退してしまったから、公式戦では一度も投げていない。それでも、ヤンキースとのメジャー契約は栄光と挫折をもたらし、その陰影のなかをさまよいながら、手さぐりでたどり着いたのがこの街だった。

野球をやめてからもドミニカには帰らずアメリカにとどまったのは、ドミニカのパスポート所持者がいったん出国した場合、正規に再入国できる保証などなく、これまでに自由契約となった多くのドミニカ人選手たちがそうしてきたからだった。そのときすでに、故郷の島にはふたりの子どもがいたから、そのことも理由のひとつであったと推測する。しかしそれ以上に、彼をこの地に踏みとどまらせたのは、ひとりのプエルト・リコ人女性との出会いであった。ボストン近郊のローレンスに部屋を借りてすぐのころに恋におちた女性がいた。現在の妻である。

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第21回 ことば遊び

2010年11月28日

「昨日、シカゴ・カブスと契約してさ……」。ドミニカ共和国、バニ市
写真:「昨日、シカゴ・カブスと契約してさ……」。ドミニカ共和国、バニ市

マイアミに行く

まんまとだまされてしまった。
週末の夜、いつものように近くのコルマド(食料品や生活雑貨をあつかう小商店)で飲んでいたときのこと。一緒にいたジョニーが「マイアミに行ってくる」と言って席をたった。最初、酔っているのかと思ったが、まだビールは2、3本しか空いていない。マイアミなんて名前のコルマドはこの辺りにはなかったはずだが……。
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第20回 American Way

2010年11月14日

ラーラ先生と選手の英会話レッスン。ドミニカ共和国サント・ドミンゴ郊外にて。
写真:ラーラ先生と選手の英会話レッスン。ドミニカ共和国サント・ドミンゴ郊外にて。

ベースボール・アカデミー

高校時代、英語の時間が嫌いだった。とりわけ、例題に使用される英文の空疎さにどうしても馴染めず、勉強にも身がはいらなかったから、いつも先生に叱られていた記憶しかない。ひさしぶりに高校時代のことを思いだしたのは、ドミニカで英会話レッスンの様子を見る機会があったからだ。生徒は、17歳から22歳までの若者たち。みんな英語など話したことのないものばかり。これだけなら、日本の英会話教室や学校の授業とさほどかわらない。しかし、出席している生徒全員が野球選手で、クラスが開かれているのが、未来の大リーガーを養成する「ベースボール・アカデミー」だとすれば・・・・・・。

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第19回 野球狂出国記

2010年10月31日

ラジオの野球中継を聴くロヘリオ。ドミニカ共和国、バニにて
写真: ラジオの野球中継を聴くロヘリオ。ドミニカ共和国、バニにて

コン・マチェーテの旅

携帯電話に見覚えのない番号から着信があった。ドミニカでは人の電話を借りてかけることが多いから、特に気にもせずリダイヤルのボタンを押す。何度目かの呼び出し音の後で、耳に飛びこんできたのは、2か月前にプエルト・リコに旅立ったはずのロヘリオの声だった。

独特の早口でまくしたてるスペイン語で、なんとか聞き取れたのが、昨日プエルト・リコから強制送還されて、首都に着いたところだという言葉だけだった。再会の約束をして電話を切った私は、無事でよかったと安堵する一方で、「またダメだったのか」と、ロヘリオの悲運になんともやるせない思いが残った。

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第18回 犯人は誰だ!?

2010年10月17日

ジョナタンに抱かれる猫。ドミニカ共和国、バニ市にて
写真: ジョナタンに抱かれる猫。ドミニカ共和国、バニ市にて

消えた魚

その日のレイナの頼みごとは変わっていた。「悪いけど、この魚の重さをマリッサの店で量ってきてくれない?」とビニール袋を手渡された。そんなことならお安い御用……でも、何のために? とにかく、2.75リブラ(約1.24キロ)という数字だけをしっかりと頭に刻みこみ、レイナに伝えた。「アイ!! なんてこと。サンポールが私を騙したわよ!」。

ことの顛末はこうである。つい先ほど魚の行商人であるサンポールが家の前を通りかかった。家のものがみんな出払って、今日はお使いを頼むことができない。サンポールが来たのを幸いに、昼ご飯のおかずにと魚を買うことにした。その時、サンポールは確かに3.5リブラ(約1.58キロ)と言い、その分の金額をレイナは支払ったのだ。魚の入ったビニール袋を台所の流しに置いてから、玄関に椅子を持ち出してフリフォーレス(インゲン豆)の皮むきをしていたそうだ。そろそろ昼食の準備にとりかかろうかというときになり、初めて異変に気づいた。これ3.5リブラもないじゃない、と。

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第17回 コンパドレの仁義

2010年10月3日

ジョルキンの代父のジュニオール(右)は、父親ジョニーのコンパドレ。ドミニカ共和国、バニにて
写真: ジョルキンの代父のジュニオール(右)は、父親ジョニーのコンパドレ。ドミニカ共和国、バニにて

代父母(パドリーノ)選びは慎重に

カトリックが国教となっているドミニカでは、子どもが生まれると洗礼式をおこなう。そのとき、両親と一緒にその場に立ち会うのが代父母(パドリーノ)たち。みんなで祈りを捧げ、水で赤ん坊の身体を清める。この儀式が終わると、ようやく神の子としてこの世に生を受けたことが認められる。洗礼式がすめば彼らの役目が終わるのではなく、その子の成長を実父母とともに一生見守っていく責任を負う。もし両親が経済的に困窮したならば、代父母である彼らが食事を与え、服を買い与えるのだ。

このように重大な責任を負うことになるのだからパドリーノは慎重に選ばないといけない。幼馴じみや友だちであるからといって、安易に選んではならない。大切なことは尊敬できるか否か、信頼できるか否かである。なぜなら、子どもの代父母であると同時に、ことあるごとに自分の相談相手になってくれるのも彼らだからである。こうして選んだ相手とは、洗礼式以降は互いにコンパドレと呼び合い、常に敬意を払って接することになる。

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第16回 代理絵描人

2010年9月19日

ラモンの宿題の絵を描くアビ。ドミニカ共和国、バニにて
写真: ラモンの宿題の絵を描くアビ。ドミニカ共和国、バニにて

宿題はまかせた

学校から帰ってきたラモン(中学2年生)が画用紙を手に頭をかかえている。理科の宿題であたえられた課題は、生物の絵を描いてくること。勉強と名のつくものがことごとく苦手なラモンである。私にタコの絵を描いてくれと頼んだのはいいが、その絵のあまりの稚拙さに「やっぱりいいよ」と、顔には失望の色がありありと浮かんでいる。
どうやってこの難関を突破するのだろう? 向かった先は、友だちのジェウディのところ。1歳年下だが、留年したラモンとは同じクラスだ。彼も画用紙を前にして呻吟中である。ふたりがだした結論は、「多少の出費をともなうがアビに描いてもらうしかない」。

22歳のアビは、父親と姉と3人で暮らしている。それまで話したことはなかったが、いつも同年代の友だちとつるまずに、年下の少年たちとポーカーをしている姿が印象に残っていた。ラモンたちと訪ねた私が日本人と知るや、「核兵器が世界で初めて使用されたのは広島の原爆だ」とか「新幹線は時速が200キロ以上もでるんだ」などとラモンたちに話して聞かせるのだ。それ以降も街角でアビを見かけると、どこから仕入れてくるのか、世界の時事ニュースや科学技術の話題を近所の少年相手に話しているのにでくわすことになる。

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第15回 2010年 ドゥアルテ通り

2010年9月5日

ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。
写真: ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。

植民地支配の遺産

ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、J.F.ケネディ。これらはすべて、首都サント・ドミンゴをはしる通りの名前である。なぜドミニカで歴代アメリカ大統領の名前が使われるのだろうか。

話は1905年までさかのぼる。アメリカがカリブ海地域を支配する拠点としてドミニカを選び、借金の形(かた)に関税権を召しあげた。これを機に資本家たちがやって来るようになり、それまでスペイン系によって独占されてきた金融業やサトウキビプランテーションを次々に買収した。サント・ドミンゴの区画整理がおこなわれ、通りの名前がつけられたのもこのころである。

すでにキューバ人によって伝えられていた野球が、この時期にドミニカ全土へと広まったのもこのような事情が背景にある。その時代から1世紀以上の時間が経過したが、通りの名は当時のままだ。このことは、今なおドミニカが、アメリカによる政治経済的支配下にあることを物語っている。

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