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「移民」のタグが付いている記事

第12回 気まぐれな同居人

2010年7月25日

各家に向かって延びる電線。ドミニカ共和国バニ市にて。
写真: 各家に向かって延びる電線。ドミニカ共和国バニ市にて。

すっといなくなる同居人

「セ・フエ・ラ・ルー(電気がいっちゃった)!!」この声を聞くと、私は使っていたパソコンの電源を落として、パティオ(裏庭)に出る。一日に3回はやってくる停電の瞬間。ドミニカにも停電を表すスペイン語の単語はあるのに、電気に人格を持たせて「いっちゃった」と表現する言い方を私は気に入っている。

夜遅くには帰ってきて、明け方に出ていくことが多いから同居人のようなものだ。しかし、この同居人は気まぐれだ。昼の3時ごろにやってきて、夕方6時を回ったころにはふたたび出かけていく。そうかと思うと、別の日には昼前に1時間ほど顔を見せて、すっといなくなる。ドミニカ人男性の生活スタイルに似ているから、いっそのこと電気というスペイン語を女性名詞から男性名詞に変えればいいのにと思ってしまうほどだ[1]

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  1. [1]スペイン語の名詞には、男性と女性の性別がある。

第11回 カクーの生涯

2010年7月11日

ここがカクーの定位置だった。ドミニカ共和国バニにて
写真: ここがカクーの定位置だった。ドミニカ共和国バニにて

アポード(あだ名)

ドミニカで知り合いと出会った際にかわす挨拶は少し変わっている。日本だと「こんにちは」あるいは、「ご無沙汰しています」といったところだろうが、ドミニカではまず相手の名前を呼ぶのである。例えば、「ベヘ!」「マランガ!」といったような挨拶がかわされる。ベヘは「年寄り」という意味のドミニカン・スパニッシュ。マランガは「太っちょ」くらいの意味のあだ名である。ではどのようにあだ名をつけるのかというと、やはり身体的特徴から名づけられることが多い。聞くところによると、子どものころに名づけられたのが、そのまま現在にまで至っているというのがほとんどだ。

「カクー」というのは、ヘルメットを表す「カコ」というスペイン語からきている。ようするに「ヘルメットみたいに大きな頭をしているやつ」という意味である。日本で言うところの「福助」だ。こんなあだ名をつけられると、気持ちのいいはずはないと思ってしまうのは、繊細すぎる日本人の感覚で、ドミニカではむしろあだ名をつけられないことのほうが悲しい。

ドミニカには、日本のタロウやヒロシのように無数のホセやペドロが存在する。そのため、噂話をするときに「ホセがねぇ」といっても、まず「どのホセが」というところから説明しないといけないほどだ。ところが、ひとたびあだ名で呼ぶことで、そのほかのホセとは区別され特別な存在になる。また、あだ名をつけられる人は、良くも悪くも人びとのあいだで話題にのぼる頻度が高い。カクーもそのような人たちのひとりであった。

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第10回 イミグレーションと「運び屋」

2010年6月27日

アメリカに滞在する娘にお土産用の「雄牛の頭の煮込み」を料理する母。ドミニカ共和国、バニ。
写真:アメリカに滞在する娘にお土産用の「雄牛の頭の煮込み」を料理する母。ドミニカ共和国、バニ。

憂鬱な入国審査

「ドミニカへはなにをしにいくのか?」これまでに何度同じ質問をされただろう。
ドミニカへの行き帰りに米国移民管理局による入国審査を受けるのだが、この時間が憂鬱でならない。イミグレーションの係官は私のパスポートに目を通すなり、一応に警戒の表情を浮かべる。

ドミニカへの出入国を示すスタンプが多いことがその理由らしいが、こちらとしてはなぜアメリカの入国管理官にドミニカ行きの理由を忖度されなければならないのか納得がいかない。コンピューターには私の個人情報が入力されているのだから、過去の質疑応答も記録しておけばいいではないかと毒づきたくなる。

「アメリカに滞在中は誰を訪ねるのか?」などと執拗に尋ねてくる係官にうんざりしながら、以前にアメリカで暮らすドミニカ移民の女性が語ってくれたエピソードを思い出していた。

パンツを脱がせればいい

現在、市民権を取得してアメリカのパスポートを持つマルレニィは、年に何度か残してきた子どもたちに会いに、ドミニカへと出かけていく。そんな彼女も空港の税関では毎回喧嘩になるという。なんでもアメリカの空港では、中南米からの女性ひとり旅は、麻薬の運び屋として疑われるのだそうだ。コカインやヘロインを詰めたビニール袋を飲みこんで、空港で待つマフィアに届けるコロンビア人の運び屋女性をテーマにした映画が、何年か前に日本でも公開されたが、マルレニィからすればその手の疑惑はいい迷惑でしかない[1]

「どこのホテルに泊まるのか?」「誰が迎えにきているの?」挙句の果てには、「あなたのようなタイプの女性には、お腹にドラッグを入れてきて、ホテルに着いてから取り出す運び屋が多いからね」とはっきり言われたらしい。さすがに頭にきた彼女は、「そんなに疑うなら、ここでパンツを脱がせて覗いてみたらいいじゃない!」と英語で啖呵を切ったというからカッコいい。それにしても、あからさまな侮蔑を隠しもせずに先入観と偏見をもとにこんな質問を平気でする税関職員がいるということに驚いてしまう。

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第9回 文化の違い? ―マキシモ・ネルソン投手の逮捕がなげかけた問い―

2010年6月13日


写真: 浅瀬で舟を操る漁師。ドミニカ共和国、サリーナスにて。

平均的なアメリカ人がアメリカのドミニカ人について知っているのは、サミー・ソーサのような大リーガーのことか、ドラッグの売人のことである。……ステレオタイプ化されない時のドミニカ人は、大きく括られての『ドミニカ人』である。

―― P・ペッサール『a visa for a dream』

くりかえされる成功物語

中日ドラゴンズのドミニカ出身選手、マキシモ・ネルソン投手が銃刀法違反(銃弾所持)容疑の現行犯で逮捕された。初犯だったため送検後すぐに釈放・不起訴となったものの、球団は3か月間の試合出場停止処分を決めた。

このニュースを耳にして、これまで彼について書かれた記事に目を通してみた。2年前、ドラゴンズへの入団が決まった翌日の紙面では、この契約がサクセスストーリーであるかのように紹介されている [1] 。その記事によると、ドミニカにあるヤンキースのアカデミーから、アメリカのマイナーリーグに昇格。しかし、2004年のシーズンオフに、30人のマイナー選手が関与する「偽装結婚事件」が発覚。以後、アメリカ滞在ビザが発給されないために、アメリカでプレーすることができなくなり、大リーガーへの道は絶たれてしまった。イスラエルリーグでプレーした後は、故郷の妻の実家に居候し、畑で野菜をつくったり、海で魚を釣ったりと野球浪人の生活を送っていたという。記事は、「お金をドミニカの家族に送金したい」という彼のコメントを載せて、今後のサクセスストーリーに注目しよう、と結んでいる。

ステレオタイプの誘惑

10年前にならすっと読むことができたこの種のエピソードが、ドミニカに毎年のように通うようになった今では、どうしても引っかかる。異文化を語るとき、自分たちの基準にあてはめたひとつの「物語」がつくられ、そのなかに散りばめられた巧妙なレトリックは、読者に偏見を植えつけ、やがてステレオタイプとして定着していく。では、これに代わる自由な「物語」はいかに紡ぎだせばいいのか。
その問いに対する答えのひとつは、その出来事がおきている社会の文脈のなかで理解することであろう。そこで私は、調査地で出会ったサクセスストーリーではない無数の「物語」に想像をめぐらせてみようと思う。

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第8回 ドミニカからつづく日本球界への道

2010年4月4日

トライアウトの出番を待つ少年、ドミニカ共和国サント・ドミンゴにて
写真: トライアウトの出番を待つ少年、ドミニカ共和国サント・ドミンゴにて

トライアウト

2008年12月。サウスポーの彼は右手にグローブをはめると、私のほうをちらりと見やり元気よくマウンドへと駆けだしていった。首都サント・ドミンゴの片隅にある野球場。普段は大リーグを目指す野球少年たちの練習場に使われているが、この日ばかりは様子が違っていた。ネット裏に陣取ったのは、日本のプロ野球関係者たち。ドミニカで初めてとなる中日ドラゴンズのトライアウトがおこなわれたのだ。肩慣らしを終えていよいよ本番。キャッチャーに背を向け大きく深呼吸をし、投球練習をはじめるエクトルを見ながら、初めてバニの球場で出会った日のことを思い出していた。

19歳のエクトルは2年前、大リーグ球団のアカデミーと契約するが、ケガなどの不運もあってアメリカに渡ることはできなかった。地元に帰ると妻と子どもが待っていた。銀行に預けていた契約金を切り崩しながら、ぶらぶらする毎日。アカデミーにいるときに、左投手が重宝されるのを知っていたし、まだ可能性はあるはずだと疑わなかったエクトルは、ふたたび昔のコーチのもとを訪ねる。初めて彼の投球を見たとき、素人目には凄い投手に映った。スピードガンの表示は90マイル(144キロ)をさしていたし、コントロールも申し分ない。なので、遅かれ早かれ、どこかの球団が彼と契約するだろうと簡単に考えていた。

バックネットに直接あたってしまう暴投が続く。日本のボールになれないのか、初めてのマウンドに足をとられているのか……。その後も思ったところにボールがいかない。野次馬のあいだから失笑がもれる。気の毒なくらいに顔が引きつっている。見かねたコーチが、投球フォームのアドバイスをするが、今度はフォームに気をとられてスピードが落ちてしまう。いつもの投球が戻らないまま、トライアウトが終った。

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第7回 大地が震動するとき ―ハイチとドミニカの関係―

2010年3月13日

路上でマニ(ピーナッツ)を売るハイチ系の男性、サント・ドミンゴにて
写真:路上でマニ(ピーナッツ)を売るハイチ系の男性、サント・ドミンゴにて

ハイチ地震

2010年1月12日、現地時間午後4時53分、大地が揺れ動き、ハイチという国が一躍有名になった。そして同じ島をわけあっているドミニカもしかり。ハイチの首都ポルトー・プランスを襲ったマグニチュード7.0の大地震で、23万人が死亡、150万を超える人びとが住居を失った。地震発生から2週間後の1月24日、私は多くの被災者救援ボランティアにまじってドミニカのラス・アメリカス国際空港に降り立った。彼らはハイチの空港が閉鎖されているので、ドミニカから陸路、国境を越えてハイチへと向かうため、こちらはドミニカで継続中のフィールドワークをおこなうためである。

最初の情報提供者は、空港で拾ったタクシーの運転手。
「あの時は運転中だったけど、しばらくは何が起こったかわからなかった。車を停めて、揺れがおさまるのを待ったよ」
その後も数度の余震を感じたというが、幸いにもドミニカ国内に被害はなかったとのこと。タクシーが首都サント・ドミンゴ中心部にさしかかる。なるほど、半年前ととくに変わった形跡もなく、穏やかないつもの光景だ。ただし、その光景には欠かせない重要なピースが抜け落ちている――ハイチ系移民労働者の姿である。普段なら通りごとに、必ず三輪自転車を停めてジュースを売るハイチ系の人たちを目にするのだが、やはり祖国に帰ったのだろうか。めっきりその数が減ったように思う。

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第6回 「野球移民」降誕

2010年1月19日

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写真:アメリカ合衆国ペンシルバニア州フィラデルフィア市シチズンズバンク・パークにて

MLB ―― 移民国家の縮図

野茂英雄投手がメジャーリーグ・ベースボール(MLB)に移籍した1995年のことである。NHKの衛星放送から流れる試合をぼんやりとながめていた私は、カメラが映しだす観客席の光景に釘づけとなった。当時、野茂投手のチームメイトにラウル・モンデシー――ドミニカ出身で新人賞を獲得――という外野手がいた。彼が打席に立つたびに、ドジャー・スタジアムの観客席から「ラウール」とスペイン語なまりの英語で掛け声がかかるのだ。アナウンサーが「ロサンゼルスには中南米からの移民が多く暮らしていまして、ラテン系の選手に対して熱心に声援をおくるのです」と説明をくわえた。当時の日本では、現在ほど街なかで外国人を見かける機会が少なかったから、ドジャー・スタジアムにつめかけた移民たちの表情までをはっきりと捉えた映像は新鮮だった。

その試合にはモンデシー選手のほかにも、ドミニカ、プエルト・リコ、イタリア、韓国に出自をもつ選手たちが出場していた。こんなことがあったのでMLBの選手名鑑を買ってきて選手の出身地を拾いあげてみると、なんと全選手のうち3割近くが外国出身者であった。アメリカ生まれとなっている選手でも名前がスペイン語読みの選手(祖先に中南米出身をもつ者)をくわえると、その比率はさらにあがる。MLBにたどりついた経緯はそれぞれ違うだろうが、国境を越えてアメリカにやってきた数多くの移民たちと同様に、彼らもまたMLBで野球をするために国境を越えてきた移民たちということになる。

今やMLBは、スタジアムにやってくる観客、プレーする選手たちも外からやってきた人たち抜きには成り立たなくなっている。歴史的に移民を受け入れることで国家を形成してきたアメリカでは、ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)といわれるベースボールも当然の帰結として多民族化する運命にあったということだろうか。

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第5回 調査地での日々

2009年11月10日

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写真: ドミニカ共和国バニ市リゴーラにて。深夜までにぎわうコルマド(食料品や生活雑貨をあつかう小商店)

日常生活

朝はいつも7時半頃にジョナタンを起こす母親の声で目を覚ます。朝食は母親が沸かしておいてくれるコーヒーに、サラミか卵を揚げたパンにはさんで食べる。こちらでは昼食に力をいれるのが習慣で、朝食はみんな軽くすませる。朝食後は、近所の野球場にプログラマ(15歳以上のプロ契約を目指す少年対象の野球教室)の練習を見に行ったり、ジョニーが行くところについて行ったりする。

昼食後は、近所の人たちの井戸端会議にまじって話をする日もあるし、家を訪ねて調査めいたことをしたりする。夕方は、ジョニーが持っているリーガ(小さな子ども対象の野球教室)の練習を手伝う。気まぐれな人たちと生活していると、毎日がルーティンワークのように進んでいくことがなく、おもしろい。

軽い夕食をすませると、水のシャワーを浴び、小奇麗な格好に着替えてブラブラ。大リーグがやっている時期には、電気がきている市街地まで出て、コルマドでテレビ観戦をする。ビールを飲みながら、好きな野球を観ていると口もなめらかになるらしく、ジョニーがライフヒストーリーを問わず語りに話しだす。こっちは、必死にメモをとるから酔いつぶれるわけにはいかず、大変である。これもフィールドワークだと私は思っている。

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第4回 フリトゥーラ

2009年11月6日

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写真: ドミニカ共和国バニ市ロス・バランコネスにて。居眠りするフリトゥーラ店主

屋台経営者の苦悩

家の向かいにある屋台を営むオヤジから金を貸してくれといわれたときの話だ。彼の店では、鶏肉や豚肉の揚げもの、臓物の煮込みを豆ご飯やバナナ揚げ、スパゲティと一緒に提供している。ドミニカでは主食のひとつであるプラタノ(食用バナナ)を揚げたものをフリートと呼び、このフリートを売る屋台形式の店をフリトゥーラと呼んでいる。

屋台といっても家の軒先にプラスティックの椅子を数脚持ち出して、ガラスケースに料理を並べただけの店構えである。夕方に開店するこの店は、夕食を軽くすませる近所の人びとや夕食にありつけなかった男たちに重宝がられており、いつも多くの客がやってくる。しかし、このオヤジの経営は、はたから眺めていても危なっかしい。一晩で1200ペソ(約2500円)くらいがこの屋台の平均の売り上げであるが、ここから彼の苦悩がはじまる。まず、サンと呼ばれる頼母子講の払いに120ペソ。米や鶏肉などの材料費に700ペソ。プロパンガスの充填代が130ペソ。ここまでで、手許には200ペソしか残らない計算になる。

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第3回 約束――その不確かなもの

2009年9月4日

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写真:ドミニカ共和国バニ市ロス・バランコネスの青年。神妙な顔つきは何を思う

「今日」と「明日」

約束は破られるためにあるといったのは誰であっただろうか。ドミニカに暮らしているとこの言葉の意味を考えない日はない。調査滞在中の身ゆえ、週に何度かはインタビューに出向くことになる。事前にアポイントはとっていくのだが、不在で会えないことが多い。あとで電話をすると、急用ができたとか家族が急病になったとかさまざまな答えが返ってくる。そのときには次に会う約束だけをしておとなしくひきさがることにしている。しかし、こんなことが二度、三度と続くとこちらの気持ちもなえてくる。もう調査なんかどうでもいいかと投げやりになる。そんな日には、近所の公園で日陰のベンチに座り、何をするのでもなくぼーっと過ごすことに決めている。絞りたてのオレンジジュースを飲んで気持ちが静まるのをゆっくりと待つのだ。

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第2回 拡大家族

2009年7月28日


写真:ドミニカ共和国バニ市近郊の海岸にて。拡大家族の休日

2008年9月29日――旅立ちの日

首都サントドミンゴからバスで1時間半ほど西へ向かうとバニ市に到着する。そこからモトコンチョ(バイクタクシー)で10分ほどのところに私の調査地、ロス・バランコネスがある。大きなボストンバッグを片手で支える運転手。ホンダ製のスーパーカブはヨタヨタと走っていく。ふり落とされぬように運転手の背中にしがみつきながら懐かしい風景をながめていた。エンパナーダ(小麦粉を練った皮に肉などを詰めて揚げたもの)を揚げるかおりにドブに溜まった汚水の悪臭がまじる。ゆきかう車が猛烈なクラクションをかき鳴らし、頭上からは熱帯の太陽が照りつける。日本でなまけていた私の身体中の感覚が一気に覚醒した。

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第1回 漂流のはじまり……ドミニカ共和国へ

2009年6月12日


写真:ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴにて、カリブ海を望む

ドミニカ共和国

ニューヨークからサント・ドミンゴに向かう飛行機がゆっくりと高度を下げていく。機内は、故郷に帰る移民たちの熱気に包まれており、そのなかに身をゆだねているだけで、お尻のあたりがムズムズしてくるのがわかる。こちらが聞いてもいないのに、故郷で待つ家族のことやアメリカでの生活についてまくしたてていたおじさんが神妙な顔つきで窓の外をながめている。その足元には免税店で買い求めたのであろうジョニーウォーカーが2本。我慢ができなかったとみえて1本はすでに封が切られていた。

ドミニカ共和国(以下、ドミニカ)はカリブ海に浮かぶ島嶼群のひとつ、大アンチル諸島に属するイスパニョーラ島にあり、隣国ハイチとその領土をわけあっている。面積は九州より少し大きく(約48,000km2)、人口約900万の国である。おもな産業はサトウキビ栽培を中心とした農業であったが、近年は砂糖の国際価格の低迷により国家収入を観光と海外送金による外貨獲得に依存するようになっている。

1492年にコロンブスが到着して以降、ドミニカは険しい道のりを歩んできた。先住民のタイノ族はスペイン人がもたらした疫病と強制労働が原因で、わずか80年間で絶滅にいたった。タイノ族の役割は、西アフリカから連れてこられた奴隷に引き継がれた。スペイン、ハイチ、アメリカとめまぐるしく替わる宗主国に翻弄されながら、独立をはたしたとはいえ現在もなおアメリカによる政治経済的支配下におかれている。

11月を過ぎ乾季がはじまると、カリブ海沿いのリゾート地は休暇で訪れる欧米からの観光客でにぎわいはじめる。美しい砂浜に建つリゾートホテルには、宿泊する欧米人と低賃金で働くドミニカ人従業員。24時間供給される電気は近隣住民がロウソクの灯りで夕食をつくることでまかなわれている。南北格差の現実を前に言葉を失ってしまうが、当事者ではない私は目に見えぬ相手への闘争心と諦念という感情をもてあますことしかできない。

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