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「人類学」のタグが付いている記事

謹賀新年

2011年1月8日

「花火の音、聞こえる? いま、街中のひとたちがしあわせそうに騒いでるんだ。明けましておめでとう!」年を越してすぐの深夜0時過ぎ、大混乱する電話回線を押しのけてかかってきた着信。電話の向こうで、ラゴスのゲットーを歩くアレックスのはしゃいだ声と眠らない街の音。

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第23回 勝利か死か

2010年12月26日


写真: 命を賭した闘い。ドミニカ共和国、サント・ドミンゴの闘鶏場にて

街角の闘鶏場

「ブランコ(白)、ブランコ!」「アスール(青)、アスール! دانيل الفيش
試合開始のベルが鳴っても、観客席の賭け金を煽る声はやまない。最前列に陣取ったオヤジさんは腕組みのまま、一点を凝視してうごかない。まのびした実況の声が、ガジェータ(駄菓子)売りのかん高い声に折り重なる。その直後、首根っこを押さえつけられ、踵で蹴りあげられた鶏の悲痛な叫び声が、会場の怒号のなかをぬって私の耳にまで届いた。

その日、首都郊外の下町にはじめて足を踏みいれた。闘鶏を見るためである。バスを2台乗り継ぎ、教えられたところで降りる。来た方向に少し歩いて、ピカ・ポージョ(中華料理店)の角まで来たら左に曲がるように、たしかにジョアンはそう言った。

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友を招き、友を訪ねる

2010年12月25日

2008年12月25日 イフェ、モダケケ地区のアヨデジさん自宅玄関まえにて

この年(2008)のクリスマスは日曜日だった。街の様子は普段と変わらない。乾季の灼熱と砂埃で霞んでいるせいだろうか――赤、白、緑、金、銀の「クリスマス色」はどこにも見あたらない。イスラム教徒の人たちにとってはいつもの日曜日だし、クリスマスをとくに祝わないキリスト教宗派に属す人びとも多い。ショッピングにケーキの予約、サンタクロースと靴下のなかのプレゼントは、世界のごく一部の話なのかもしれない。

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日本との関わり(1)

2010年12月21日


写真: タイ北西部のメーホンソーン県の中心地から南へ約60キロ下ったクンユアムという街には、インパール作戦から撤退した日本軍の遺物を収集した博物館がある。この博物館では、タイ人のある警察署長が個人的に収集した遺物が展示されている。タイのカンチャナブリという街には日本軍の残虐行為を記録した博物館(JEATH戦争博物館)がある。対照的にこの博物館は、日本兵と現地の人びとの友好関係を強調するつくりになっている。

日本軍の記憶

タイ国境で難民として暮らすカレン系の人びとと、日本人のあいだには、古くからの関わりがあった。それは第二次世界大戦までさかのぼる。

調査をしていると、第二次世界大戦中の話を聞くことがある。ビルマは、1942年から1945年まで日本の占領下にあった。それまでビルマはイギリス領で、カレンやカレンニーの人びとは、イギリス側について日本軍と戦った。

興味深いのは、当時そこに居合わせた世代に限らず、その次の世代、さらにまた次世代も戦争の話を伝え聞いていることだ。負の遺産というものは、加害者側は記憶の彼方にやることができても、被害者側には語り継がれ、いつまでも頭にこびりつくのだろうか。そして、こんな風に難民としての経験も語り継がれるのだろうか、とふと思う。

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悪魔を追い払えば

2010年12月20日

ヨルバの神像を彫るアヨデレさん。2009年10月31日 イフェ、アジバンデレのアヨデレさんの工房にて

約束の時間ぴったりの朝10時。木彫家のアヨデレさんの姿はまだない。工房の壁にもたれかかっていると、近所の少年が小さな木の椅子を持ってきてくれた。腰かけて5分少々、いつものスズキのバイクがこちらへ向かってくるのが見えた。

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第22回 愛に苦しむものたちへ

2010年12月12日


写真: フェリンの息子と戯れるペロテロ。アメリカ合衆国、ペンシルバニアにて

元メジャーリーガーの恋

「ドミニカの人たちはラテン系だから人生を謳歌しているんでしょう?」とよく聞かれる。たしかに「いま」という一瞬を激しく生きる彼らは、人生をあますところなく享受しているように見える。しかるに、ラテン的に生きることの辛さやわびしさがある。心を狂わすような恋に身をやつし、終始おいたてられた挙句に、なるようにしかならないと居直ってしまえれば楽であるが、そんなふうに簡単にいかないのが人間というものである。

ひとりの元メジャーリーガーがペンシルバニアのドミニカ人街でくすぶっている。ペロテロ(野球選手)と呼ばれるその男は、元ヤンキースの投手である。といっても、スプリング・トレーニングに呼ばれたときに肩を故障し、そのまま引退してしまったから、公式戦では一度も投げていない。それでも、ヤンキースとのメジャー契約は栄光と挫折をもたらし、その陰影のなかをさまよいながら、手さぐりでたどり着いたのがこの街だった。

野球をやめてからもドミニカには帰らずアメリカにとどまったのは、ドミニカのパスポート所持者がいったん出国した場合、正規に再入国できる保証などなく、これまでに自由契約となった多くのドミニカ人選手たちがそうしてきたからだった。そのときすでに、故郷の島にはふたりの子どもがいたから、そのことも理由のひとつであったと推測する。しかしそれ以上に、彼をこの地に踏みとどまらせたのは、ひとりのプエルト・リコ人女性との出会いであった。ボストン近郊のローレンスに部屋を借りてすぐのころに恋におちた女性がいた。現在の妻である。

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血は水よりも濃い

2010年12月11日

2009年12月4日 イフェ、モダケケ地区の下宿にて

9jaで誰かと友だちになること、それはその兄弟姉妹ともつながるということ。電話でもメールでも、結びはいつも家族の名前をあげ、「○○によろしくね」としめくくる。両親や祖父母、叔父叔母ならとくに固有名詞は必要ないけれど、兄弟姉妹はそれぞれの名前を言わないといけないからたいへん。たとえばアミナは7人兄妹だが、みんなよくアミナを訪ねて来ていたし、話や写真でも彼らのことを聞きなれていたので、いつのまにか名前も順番も覚えていった。9jaは大家族が多いにもかかわらず、不思議とみんな記憶しているものだ。

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サッカーが好き

2010年12月4日

2010年5月21日 イフェ、イレモ地区のアフォラヨンの工房まえにて

「すんませーん」
学ランを着た中学生たちは、そう言って道を開けてくれた。ざっと数えて6、7人。ふたたび道をふさいでサッカーをはじめた彼らをよそに、急いでいたわたしはまた自転車をこぎはじめた。ひさしぶりの故郷のかおり。博多湾へつづく道すがら、なま暖かい12月の風を胸に受けて思い出す……そういえば、こんなことまえにもあった。

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ビルマの「転換点」

2010年11月30日

「総選挙」とアウンサンスーチー 氏の解放

2010年11月のビルマでは、歴史に残る大きな2つの出来事があった。

それは、20年ぶりの「総選挙」と7年半ぶりにアウンサンスーチー氏が自宅軟禁から解放されたことである。スーチー氏は、2度の解放期間をはさんで合計3回、1989年からのべ15年間も自宅軟禁にあった。

この2つの出来事が深く印象に残ったのは、「総選挙」を実施する体制への「不信」と、解放後に国民がみせたスーチー氏への「信頼」が対照的であったからである。

さんざん指摘されているように、11月7日に20年ぶりに行われたビルマの「総選挙」は、問題含みだった。そもそも、選挙に先立って行われた憲法の承認をめぐる「国民投票」や、その結果、「承認」された憲法は、現在の軍事体制を「合法的」に、民政の名のもと継続させるためのものであった[1]。選挙結果は、誰もが予想したとおり、現政権よりの政党の大勝におわった[2]。こうした事情から、この「総選挙」は茶番とされ、体制への「不信」を改めて浮き彫りにするものになった。

一方で、11月13日に解放されたスーチー氏への支持と期待は、「総選挙」のそれとは対照的だった。解放された当日や、翌日の演説には、数千人とも数万人ともいわれる多くの人が駆けつけた。はっきりとした口調で明晰なメッセージを発する彼女を頼もしく思った人は少なくないはずである。体制への「不信」に対して、国民の彼女への「信頼」と、彼女が「信頼」する国民が、これから具体的にいかにビルマを変えられるのかはわからない。それでも、そのためのヒントはスーチー氏の演説にあると思う。

スーチー氏の演説については後で触れるが、今回は、ビルマ体制への「不信」をいかに「信頼」へと変えられるのか、その可能性について、さまざまな視点から考えてみたい。

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  1. [1]新憲法の中身の解説は、根本敬(ビルマ市民フォーラム運営委員、上智大学外国語学部教授)「はじめての方々への解説」を参照。
  2. [2]ALTSEAN-BURMA(Alternative Asean Network on Burma)による統計を参照。

第21回 ことば遊び

2010年11月28日

「昨日、シカゴ・カブスと契約してさ……」。ドミニカ共和国、バニ市
写真:「昨日、シカゴ・カブスと契約してさ……」。ドミニカ共和国、バニ市

マイアミに行く

まんまとだまされてしまった。
週末の夜、いつものように近くのコルマド(食料品や生活雑貨をあつかう小商店)で飲んでいたときのこと。一緒にいたジョニーが「マイアミに行ってくる」と言って席をたった。最初、酔っているのかと思ったが、まだビールは2、3本しか空いていない。マイアミなんて名前のコルマドはこの辺りにはなかったはずだが……。
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帰り道

2010年11月20日

2009年1月29日 イフェ、オバルフォン通りにて

疲れているのに、お腹がすいているのに、トイレをがまんしているのに、家路は遠かった。バスに乗りこめば、隣前後の人たちとの「ふれあい」がまたはじまる。その日の汗と砂ぼこりが染みついた体を、たがいにくっつけて座る。いつもの渋滞や運転手の荒い運転に、みんなが野次やジョークを飛ばす。

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【番外編】大野更沙さんブログ「困ってるひと」

2010年11月15日

大野更紗「困ってるひと」

大野更紗さんが、ポプラ社・ポプラビーチで連載している「困ってるひと」のブログを紹介します。大野さんは、免疫系の難病を患う「医療難民」で、ビルマの「毒」にやられてしまった「ビルマ女子」。

ブログで綴られている「難民」としての当事者の経験は、大過なく暮らす私たちの生活とは、はっきりいって別世界。経験したものしかわからない壮絶さが垣間見える。しかし、大野さんがツイッターやブログで提起する問題を丹念におっていくと、彼女が経験する「この世の地獄」は、決して他人ごとではないかもしれないと思えるようにもなってきた。

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