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ビルマ難民キャンプが閉鎖へ!?
2011年4月15日
難民の帰還は可能なのか
いくつかの報道機関によれば、今後、タイ政府は難民の帰還を促すとともに、ビルマ難民キャンプの閉鎖を検討しているという[1]。むろん、難民が帰還するには時期尚早だと思われるが、送還計画がでてくることじたい、驚くべきことではない。というのも、ここに至るまでの伏線があったからである。
まず、過去にも送還計画はもちあがっており、機会があれば難民を送還し、その数を減らすというのがタイの基本方針だからである[2]。これを助けるのが、第三国定住制度の導入だった。ビルマ難民に先立つインドシナ難民のケースでも、第三国定住制度が難民数の減少とキャンプ閉鎖を促した。
そして、ビルマ政府が形式的にでも、「民主化」を進めたことである。これは難民の送還にむけた格好の口実となる。ビルマでは、11月の「総選挙」をうけて、2011年1月31日に議会が招集され、3月30日に新政府が発足した。これにともない軍政である国家平和発展評議会(SPDC)は解散した。新大統領には、SPDCのタンシュエ議長の側近であるテインセインが就任した。以前の記事で書いたように、これは形式的な「民政移管」であり、ビルマ政府にとっては既成事実をつくることが重要なのだ。政権の内実に変わりはない。
ただし、インドシナ難民のときと異なると思われるのは、新たに数万人単位で移民・難民がビルマからタイへ流入していることである。このため、新たにキャンプに流入した難民の登録はされておらず、誰がキャンプの成員かどうかさえ、はっきり把握されていない。
こうした事情から、ただちに難民の送還が実施されるとは考えられないが、この先20年間もこのままの状態であるわけもないだろう。では、どんな顛末が考えられるのだろうか。
- [1]Irrawaddy(イラワディ誌) Time for Refugees Go to Home? (April 7 2011)
Democratic Voice of Burma(ビルマ民主の声) Refugees fearful of Thai warning (April 11 2011)
Asahi.com(朝日新聞オンライン) ミャンマー難民キャンプの閉鎖検討 タイ政府、帰国促す(2011年4月11日)
Democratic Voice of Burma(ビルマ民主の声) Thailand rues refugee ‘burden’, plans return (April 12 2011)
いずれの記事にも最終アクセス日は、2011年4月15日。↩ - [2]詳しくは拙稿 「タイの難民政策」『タイ研究』9号を参照。↩
緑うすき熱帯
2011年4月9日
「熱帯アフリカってどんな感じですか?」
大学2年生の立春、アフリカ美術史の恩師にたずねてみた。1960年代にナイジェリアで10年暮らしたイギリス人の恩師は、しわしわの大きな白い手を羽に見たてておしえてくれた。
「ジャングルにはね、こんなに大きな蝶蝶がいるんだよ」
震災によせて
2011年4月8日
今回の震災で被災された方に、心からお見舞い申し上げます。
未曾有の大災害から、もうすぐ1か月が経過しようとしている。いまだに被害の全容すらつかめずにいることへのもどかしさとともに、大災害に対する無力さを痛感している人も多いかもしれない。
震災をとおして目の当たりにしたのは、何十万人規模にもおよぶ「難民(困っている人)」である。
正直、2010年1月12日に起きたハイチの地震では、「他人事」だった震災も、今回はどこか「当事者」の意識をもって経緯を見守っている自分に気がつく。それは、流れてくる映像や被災状況があまりにもショッキングだったからだろうか。それとも、「国民」としての意識がそうさせるのだろうか[1]。
海外では、「規律正しい日本人」に賞賛の声があがっているらしい。しかし、レベッカ・ソルニットが著書、『災害ユートピア』で紹介しているように、災害時に短期的にでも助け合いが生まれるのは、日本に限ったことではない。
- [1]ハイチの地震では、23万人が死亡、150万人を超える人が住居を失ったという。人の命を人数ではかることはできないが、改めてその規模に言葉を失う。(窪田暁 2010年3月13日 「大地が震動するとき―ハイチとドミニカの関係―」を参照)↩
人間たちのいる場所で
2011年4月2日
眠るその娘を見つめながら、ふと、想像してみる。80歳になった彼女はココナッツの木陰で腰かけて、何を思うのだろう。
寄りそって助けあい、傷ついて慰めあう。嫉妬して奪いあい、抱きあって笑いあう。相手につよさを求めたり、弱さを許したりする。探しもとめて、見つけて、やっとつかんだと思ったら、手からするりと落ちる。人間がふたり以上いる場所で、心はいつも忙しかった。ひとりならそんなことは起こりえなかっただろうに――懐かしさが胸をよぎって、彼女は母の背なかを思い出してみる。ぬくもりはいまもなお、彼女をやさしくつつみこんだ。
第28回 多言語の海を泳ぐ子どもたち
2011年3月27日
写真:算数の問題を解く外国籍児童。中津小学校日本語教室にて
日本語学級
「3の段までできるようになったか。すごいな」先生にほめられたコウジ(日系ドミニカ・小学2年生)は、顔をくしゃくしゃにさせてうれしそうだ [1] 。九九カードという教材を使って、各段を暗唱できれば合格。
「アサガオ、オカシ……」少しはなれた席から、先生のことばをタドタドしく復唱する声が聞こえる。別の先生が電子辞書を片手に、フィリピンから来日してまだ2週間の女の子につきっきりで教えているのだ。もうひとつの島では、3年生のエリカ(日系ブラジル)とヨシタカ(日系カンボジア)が通常学級であった算数のテストを復習中。ふたりとも日本語で書かれた文章題に苦戦している様子がうかがえる。
愛川町立中津小学校の日本語学級での授業風景である。全校児童626人のうち、外国籍の児童は86人。日本国籍だが、日本語指導が必要な児童4人をくわえると90人の子どもが外国にルーツをもつ。このなかで日本語学級にまなぶ児童は45人である。中津小では、3人の日本人教員と母語通訳者3名(スペイン語、1名はポルトガル語通訳も兼任・週に2回)が日本語学級での指導にあたっている。
- [1]この回に登場する子どもたちの名前はすべて仮名。括弧のなかの「日系」は両親または祖父母のいずれかが日本人であることを表す。↩
タイヤよ、歩きつづけ
2011年3月26日
街でふと、バイク修理工の足もとに目をやった。黒のゴム地にシンプルなデザインで、鼻緒のむすび目の赤がアクセントのサンダル。少々ごつそうにも見えるけれど、その格好のよさにわたしもひとつ欲しくなる。友人に話すと、「ああ、アデジャのこと? あんなものが欲しいの?」と笑いながら、店へ連れて行ってくれた。
第27回 親の故郷は外国だった
2011年3月20日
写真:ボランティア団体が主催するイベントに出展する各国の屋台。神奈川県愛川町にて
日系人コミュニティ
小田急電鉄の本厚木駅から車で北に30分。混雑する国道を避け、中津川に並行して走る県道を行く。のどかな田園風景がしばらく続き、やがて遠くに見えていた八菅山が徐々にせまってくる。ところが中津川を渡り、坂道を登りきると、住宅街へと景色が一変する。県道54号線を境にその先には、厚木市にかけて内陸工業団地がひろがっている。豊かな自然のなかにつくられた工業団地と古くからある市街地。それが、神奈川県愛川町をはじめて訪れたときの印象であった。
県道沿いのコンビニに飲み物を買うために立ち寄る。レジで私の前に並んでいたのは、ニット帽を深くかぶったラテン系の女性。私の視線を感じたのか、支払いを終えた彼女は警戒するようなまなざしでこちらを一瞥すると、足早に店を後にした。道路をはさんだ向かいにはブラジル食材店。その二階にはタイ料理店の看板がかかっている。目の前を通り過ぎる車の何台かは、外国人がハンドルを握っている。そのすべてが、もうなん年も前からこの町で暮らしてきたといった風情を醸しだしていた。
これはのちに知ったことだが、愛川町の人口4万3,000人のうち、2,600人が外国人であり、そのほとんどが自動車メーカーの下請工場を中心に、製造関連の企業が集まる内陸工業団地で働いているということ。また、その出身地域も中南米からの日系人以外にタイやフィリピンなど多岐に渡っている。
1990年に出入国管理法が改正され、日系人に対する就労制限が緩和されるとブラジルやペルーから大量の日系人が来日した。群馬県大泉町にブラジル人が集住していることは有名だが、愛知県豊橋市や静岡県浜松市といった東海地方にも南米出身の日系人がたくさん暮らしている[1]。そして、実はここ愛川町こそが国内最大の日系ドミニカ人集住地区なのである。
- [1]法務省ホームページ 「国籍(出身地)別市・区別外国人登録者」参照
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001065021↩
Up NEPA!
2011年3月19日
コンクリートの床に転がって涼んでいると、向かいの部屋のトスィンがやって来てドアをノックした。つけ毛をほどくのではさみを貸してほしい、と。
風通しのよい玄関の階段に腰かけ、自毛に編みこんだつけ毛をひとつひとつほどいていくトスィン。ひんやりと気持ちのよい階段にわたしも座ってみる。電気が来ないとこの暑い午後に扇風機をまわせない。
多文化共生、それとも他文化強制?
2011年3月18日
多文化共生
各種報道によると、第三国定住制度をとおして来日したカレン人5世帯27人は、3月9日、無事に研修を修了したそうだ。今後は本人たちの希望に沿って、三重県鈴鹿市と千葉県八街市で、農業関係の仕事に従事するそうである。本人たちが望むような定住生活をおくれるよう願うばかりである。このほかの地域でも、過疎化と農業の担い手不足に対応するため、海外からの難民を対象に農業研修をおこない、町への定住を検討するところもでてきた。
難民に限らず、在日外国人が増加するなかで、誰にとっても暮らしやすい社会のあり方が求められている。そのためのひとつの標語が「多文化共生」である。「多文化共生」とは、外国人もおなじ地域の構成員であるという視点にたって、対等な立場からの社会参加をうながす仕組みをつくり、互いの文化的差異を認め暮らすことである。カレン難民の研修をおこなった新宿区にも「多文化共生連絡会」というものが設置されている。
美味
2011年3月12日
帰国してこのトウモロコシのことを母に話すと、「そう言えばわたしがまだ小さかったころ、そういうすっごく硬くて甘くないの食べてたわ」と、懐かしげに思い出していた。
6月から9月の雨季の盛り、ナイジェリアで豊富に実るトウモロコシ。畑を持つ友人たちを訪ねると、もぎたてのトウモロコシを帰り際に持たせてくれる。
朝7時をまわれば住宅地に響きわたる、いつものメロディにのった「オギ」売りの声。女性たちが頭にのせて歩いて売っている。「オギ」はトウモロコシ粥のもとで、熱湯で溶かして、朝食にすることが多い。午後から日没まで街のいたるところで買えるのは、あつあつの焼き(または茹で)トウモロコシ。女性たちは炭火のうえに敷かれた網のうえでトウモロコシを転がしながら、こんがりと焼いている。夕方から夜にかけては、コーンスターチを蒸して豆腐のようにした「エコ」が売られる。これはご飯の代用で豆や青菜のおかずが添えられる。帰宅途中の人びとでにぎわう交差点で、女性や子どもたちが「エコ」のつまった大きな桶のまえでしゃがんで客を待っている。
ひたすら硬くて全然甘くない9jaのトウモロコシ。なぜかいつも食べてしまうのは、それしか売っていないからなのか、安いからなのか。いや、やっぱりすごく美味しいから、か。
天気予報
2011年3月5日
夕方4時をまわればいつだって気にしてしまう、空の色。風が舞い、椰子やバナナの木々がざわめく。灰色の雲がぐんぐんと押し寄せて、淡い水色の空を覆っていく。ところどころ、その隙間から光がまだわずかに差しこんでいる。