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海を渡り、陸をゆく
2010年10月2日
発車するやいなや、乗客全員が大声で祈った。
「神よ、どうかわれわれを無事に目的地へ連れて行きたまえ」
メーターの針は、時速90キロと110キロを行ったり来たり。風でおくれ毛が頬にあたって痛む。エンジンの上に座る太ももの裏は汗でぐっしょり。運転手がギアチェンジするたびに、シフトレバーと彼の右腕がわたしの左膝をつつく。走行距離は25万9027キロメートルを越えていく。
まだ見ぬ孫たちへ
2010年9月25日
結局ね
一緒やったんよ、遠い異国の地へ行っても
みんながそう
嫉妬したり、抱きしめたり、絶交したり、祈ったり
うらやましい、愛おしい、腹立たしい、元気でいてほしい
第16回 代理絵描人
2010年9月19日
写真: ラモンの宿題の絵を描くアビ。ドミニカ共和国、バニにて
宿題はまかせた
学校から帰ってきたラモン(中学2年生)が画用紙を手に頭をかかえている。理科の宿題であたえられた課題は、生物の絵を描いてくること。勉強と名のつくものがことごとく苦手なラモンである。私にタコの絵を描いてくれと頼んだのはいいが、その絵のあまりの稚拙さに「やっぱりいいよ」と、顔には失望の色がありありと浮かんでいる。
どうやってこの難関を突破するのだろう? 向かった先は、友だちのジェウディのところ。1歳年下だが、留年したラモンとは同じクラスだ。彼も画用紙を前にして呻吟中である。ふたりがだした結論は、「多少の出費をともなうがアビに描いてもらうしかない」。
22歳のアビは、父親と姉と3人で暮らしている。それまで話したことはなかったが、いつも同年代の友だちとつるまずに、年下の少年たちとポーカーをしている姿が印象に残っていた。ラモンたちと訪ねた私が日本人と知るや、「核兵器が世界で初めて使用されたのは広島の原爆だ」とか「新幹線は時速が200キロ以上もでるんだ」などとラモンたちに話して聞かせるのだ。それ以降も街角でアビを見かけると、どこから仕入れてくるのか、世界の時事ニュースや科学技術の話題を近所の少年相手に話しているのにでくわすことになる。
アーティストたちよ
2010年9月18日
降りやまない雨のなか、ナイジェリアから帰国した。残暑の厳しい日本にいて、9jaの朝の肌寒さを思い出せない日もあった。目が覚めてあの肌の感覚をとりもどす今日日、ひとりのアーティストが来日した。
ココ
2010年9月11日
「個々」ではなく、「此処」と発音してみてもらえるだろうか。
そう、それが「ココ」のイントネーション。チョコレートの原料であるカカオのことを、「ココ」とナイジェリアの人たちは呼ぶ。輸入食品店にでも行かない限りチョコレートの姿を見ることはないけれど、ナイジェリアのココの輸出量は、世界でも五本の指に入る。
第15回 2010年 ドゥアルテ通り
2010年9月5日
写真: ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。
植民地支配の遺産
ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、J.F.ケネディ。これらはすべて、首都サント・ドミンゴをはしる通りの名前である。なぜドミニカで歴代アメリカ大統領の名前が使われるのだろうか。
話は1905年までさかのぼる。アメリカがカリブ海地域を支配する拠点としてドミニカを選び、借金の形(かた)に関税権を召しあげた。これを機に資本家たちがやって来るようになり、それまでスペイン系によって独占されてきた金融業やサトウキビプランテーションを次々に買収した。サント・ドミンゴの区画整理がおこなわれ、通りの名前がつけられたのもこのころである。
すでにキューバ人によって伝えられていた野球が、この時期にドミニカ全土へと広まったのもこのような事情が背景にある。その時代から1世紀以上の時間が経過したが、通りの名は当時のままだ。このことは、今なおドミニカが、アメリカによる政治経済的支配下にあることを物語っている。
父さんと母さん
2010年9月4日
「そうね、ポピシはモミシをすごく愛してたわ」
二女の大きな丸い目は、微笑みで細くなった。5年前、大学生だった彼女の下宿のテレビの上には、額縁に入れられたポピシの小さなモノクロ証明写真。いま、その写真は嫁ぎ先の家の鏡台に。
染みた果汁
2010年8月28日
どうしようもないえぐみが、びりびりと舌にくる。
「(中国語をまねて)チンコー! チンチョン!」もうやめて。「男か? 女か?」そんなにじろじろひとの体を見んでって。「今日はなにを持ってきてくれたの?」毎回持ってこれるわけなかろうもん。「オロリブルクッ(腐った頭)! ぼーっと歩いてんじゃねぇぞっ」そっちがバイクで蠅みたいに飛び交うけんやろ。ああもう、血がでてきたやん。
第14回 エスペランサ―希望の虫―
2010年8月22日
写真: 退院後、ジーシーと聖書を眺めるレイナ。ドミニカ共和国、バニ市にて
母の入院
2メートル近い長身で100キロを超える大男のジョニーが泣くのをはじめてみたのは、母親のレイナが肺がんに侵されているのを知ったときだった。1年くらい前から、ときおりレイナが「最近右足のつけ根に痛みが走ることがあってね」とこぼすようになっていた。それでも笑顔で話す口振りに、家族の誰もが深刻には受け止めていなかった。
山奥の村で生まれ育ち、一度はハリケーンで家を失いながらも、新しいバリオで3人の子どもを育てあげたレイナにとって、これぐらいのことは気にも留めていないようだった。しかし、次第に米を受けつけなくなり、日増しに痩せていく姿を見て、心配は確信へと変わった。今にして思えば、1年前からすでに病が彼女の身体を蝕みはじめていたのであろう。大好きだった幼稚園の給食婦の仕事を休み、毎晩のように教会に通うようになったとき、ついに夫のラファエルは金策に走り、首都の病院で検診を受けさせる決断をした。
日本で生まれたあんた、9jaで生まれたわたし
2010年8月21日
あんたはナイジェリアで生きていけないわね。ここでサバイブするにはもっと自分勝手じゃなきゃいけないの。そんなんじゃあんたは利用されちゃう。わたしはそれがゆるせない。
祈り、とどろく
2010年8月14日
大声をあげ、こぶしを振りあげて、全身をふるわせながら、祈り、歌い、踊るみんな。わたしはただぼう然とする。熱い。天井につるされた扇風機は、その羽根が見えるほどにゆっくりとしかまわらない。60人の汗がまじった熱気と鳴り響く祈りで空気は重く、気が遠のいていきそう。息苦しい。立ちっぱなしで足がむくみ、薄くて硬いプラスチックの椅子に腰をおろす。痛い。日曜礼拝がはじまって、すでに5時間半が経っていた。
第13回 ドミニカンヨルクたちの週末
2010年8月8日
写真:週末の夜を楽しむドミニカンヨルクたち。アメリカ合衆国、ペンシルバニア
ドミニカ通り
アメリカ合衆国ペンシルバニア州の小さな町の片隅に、ドミニカ通りと呼ばれる一角がある。「サボール・キスケーヤ」「スーペルメルカド・ドミニカーノ」といったドミニカにちなんだ看板を見ないでこの界隈をやり過ごすことはできない。人口1万5000人あまりの町に3000人ものドミニカ人が暮らしていると言われてもいまいちピンとこないけれど、この通りを歩いてみると、なるほど、たくさんのドミニカ人がこの町に暮らしているのだと実感できる。ドミニカ料理店からはあのコリアンダー独特のかおり、隣の店をのぞけば、ドミニカの家族に送金をする人たちの列、道路をはさんだ向かいにはドミニカ料理の食材を取り揃えたスーパーがあり、本国へのノスタルジーをかきたてられる。無機質なアメリカの町並みも、ラテンのアクセントが少し加わるだけで、いきいきとした表情を取り戻す。
この町にふたつしかないドミニカ系ディスコのひとつがこの通りにある。「カンティーナ(酒場)」という名のその店は、ドミニカ人の習慣にあわせて、木曜日から日曜日の夜だけ開店する。カウンターで客の注文をうける女性がドミニカ系なら、やってくる客もこの町に暮らすドミニカンである。土曜日の深夜0時。客で埋めつくされた店内には香水のにおいと人いきれが充満する。ドミニカ音楽の最新のヒットチャートが流れ、雰囲気がさらにヒートアップ。2時半の閉店まで、さあこれからが本番といわんばかりだ。