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第26回 ラティーノ・エキスプレス

2011年2月15日


写真:ヘーズルトン行きの客を待つタクシー。ニューヨーク、マンハッタンのワシントンハイツにて

移民街をむすぶ

午前5時30分。スーツケースを足もとに置いて玄関先の道路で待つ。2011年1月下旬のペンシンルバニアの通りには除雪車によって両端に押しのけられた雪が解けずに残っており、日の出まえの暗闇をやわらげてくれる。氷点下10℃では、ついさっき飲んだばかりのコーヒーの効き目もとっくに薄れ、つま先からじわじわと寒さがせまってくる。大型ワゴンのヘッドライトがゆっくりとこちらに向かってきた。ヘッドライトを数回点滅させたから、きっとあのワゴンに違いない。私も合図に応えるように右手をあげた。

ペンシルバニア州ヘーズルトンからニューヨークのマンハッタンに向かうには自分で車を運転するか、グレイハウンドバスを利用するのが一般的である。しかし、ドミニカ人の多くはニューヨークまでのガソリン代60ドルを払う余裕のない生活を送っている。長距離バスにしても、限られたダイヤや停留所からの移動を考えると不便である。そこで登場するのが、ドミニカ人経営の乗り合いタクシーである。

ヘーズルトンでは現在、4つの会社がしのぎを削っている。毎日ニューヨークまでニュージャージー経由で5往復する。値段は15ドルで、玄関先まで迎えにきてくれる。ニューヨーク側の終点はマンハッタンのドミニカ人街、ワシントンハイツ。JFK空港へ行く客はここでタクシー会社が呼んでおいた、これまたドミニカ系のタクシーに乗り換える。追加料金35ドルを払っても合計で50ドル。3時間の距離がこの値段だから格安でしかも快適である。

運転手は私を拾うと、携帯電話の無線機能を使って会社に報告して、次の客に電話するように頼んでいる。車内にはすでに3人の先客がいた。みんな眠たそうに押し黙ったままだ。しばらくしてめあての家に到着。客の姿はない。運転手がクラクションを2回鳴らすと二階の窓にパッと明かりがついた。年配の女性客が「あきれるわね。二度寝してたんじゃないの」と誰にともなくつぶやくと、運転手が「朝一の便はだいたいこんなものさ」となれた口調で応じた。ともかく5分ほどこの二度寝氏を待って、また次の客が待つ家へとむかう。

ドアトゥドア

このタクシーを利用すると、ドミニカ人がどんなところに住んでいるかがわかる。まんべんなく広い範囲にわたっているが、ボデガ(ドミニカ系のグローサリーストア)の近所にはドミニカの国旗を窓にかけてある家を多く見かける。また大通りに面した住居もドミニカ人の割合が高い。元の住民が閑静な山手に引っ越して空き家となったところに移民が入居するケースが多いからだ。

ワゴン車が最後に向かった先は、こげ茶色のこぎれいなアパートの駐車場。高校生くらいの孫に身体を支えてもらって老婆がゆっくりと降りてきた。この時点ですでに出発時刻の6時を5分ほど過ぎていた。席に腰かけた老婆が「メガネを忘れてきたわ」と言って、またアパートの部屋に戻ろうとする。孫が「おばあちゃん、さっきカバンに入れてたでしょ!」と言ったが、それでもトランクに積んだカバンを開けて確認するまでは納得しない。私は9時30分までに空港に着かないといけないのに、と気持ちがあせる。結局、孫の言ったとおり老眼鏡はカバンから出てきた。15分のロス。乗客一同、なんともいえない表情である。私以外はドミニカ人ばかりが乗ったラティーノ・エキスプレスは高速道路へ繋がるバイパスに出ると、一気にスピードをあげた。

ドミニカンタイム、アメリカンタイム

車内での乗客どうしの会話を聞いていると、利用目的はさまざまだ。ニューヨークの家族を訪問するもの、ニュージャージーの会社に毎日通うもの、ニューヨークでしか手に入らないものを買いにでかけるもの、ニューヨークでボストン行きに乗り換えるもの、大学に通うもの……。ドミニカからの移民は当初、ニューヨークに集中した。その後、地価の高騰によって移民の仕事先の工場がニュージャージーやペンシルバニアに移転する。それを追いかけるように移民たちもペンシルバニアのこの街に引っ越してきた。いまでも多くの家族や友人がニューヨークにいる。お互いを訪問するのにこのドミニカン・タクシーが重宝されているのである。

ニューヨークへの入口であるワシントンブリッジに差しかかったのは午前8時30分。すでに通勤先に向かう車で渋滞中である。二列まえに座ってのんびりと隣の客と話している老婆がうらめしくなってきた。半時間かけて終点のワシントンハイツに到着。乗客たちはめいめいの方向に散っていく。私は運転手に手伝ってもらって、待っていたタクシーに乗りこむ。事情を話して飛ばしてもらうも空港に着いたときにはチェックインの時間を2分過ぎていた。航空会社の職員がにべもない口調で私に告げた。
「2分過ぎたので本日の便には搭乗できません」
「たったの2分だよね」
「明日の便を予約してください」
空港近郊のホテルに向かうシャトルバスを待っていると、あの15分がなければ飛行機に乗り遅れなかったのにと、悔しさがこみあげてきた。同時に、老婆がメガネを探しているときに運転手をはじめ乗客の誰ひとりとして老婆を責めるものはいなかったことを思い出した。二度寝氏のことも誰も責めずに待っていた。だとすれば、ラティーノ・エキスプレスとはなかなか粋な命名ではないか、と思わず笑みがこぼれた。

(隔週日曜更新)