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	<title>清水弘文堂 &#187; 移民</title>
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	<description>環境学、民俗学の学術書を提供する清水弘文堂の公式ウェブサイトです。</description>
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		<title>第32回　食卓の弁護士</title>
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		<pubDate>Sun, 15 Jan 2012 00:00:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
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		<description><![CDATA[写真： 移民の食卓も守るアボカド。アメリカ、ペンシルバニア州にて 昼食至上主義 レイナの闘病生活がはじまって2年がたった。いちばんの変化は、昼食の献立から肉が消えたこと。治療費と薬代をひねりだすために食費が削られることに [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="/wordpress-top/wp-content/uploads/2012/01/transborderplayers-032-01-540.jpg" alt="" title="transborderplayers-032-01-540" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-7340" /><br />
写真： 移民の食卓も守るアボカド。アメリカ、ペンシルバニア州にて</p>
<h4>昼食至上主義</h4>
<p><a href="/transborder-players/14-esperanza/">レイナの闘病生活</a>がはじまって2年がたった。いちばんの変化は、昼食の献立から肉が消えたこと。治療費と薬代をひねりだすために食費が削られることになったのだ。レイナは幼稚園の給食婦をしていたくらいだから、料理の腕には自信がある。自分の料理をおいしそうに食べる家族の姿を見るのがなによりの楽しみだった。それが昔なら鶏肉が盛られていた皿に、いまではスパゲティか生野菜が添えられているだけ。「こんなへんな料理で悪いね」と言いながらレイナが料理をとりわけてくれるのだが、本人が一番つらいことを知っているので返答に困ってしまう。</p>
<p>昼食の時間が近づくと、通りには胃袋を刺激するにおいが充満し、にわかに人の往来が激しくなる。職場から昼食を食べに帰る人たちや、母親からおつかいを頼まれた子どもたちだ。ドミニカの地方都市で定食屋をあまり見かけないのもうなずける。あるいは、旧宗主国であるスペインの影響がこんなところに残っているのだろうか。家族がそろって食事をとり、シエスタ（昼寝）を挟んで、ふたたび仕事に出向く。昼食が一日の中心という考えかたである。鶏かな？　魚かな？　頭のなかは今日の献立で一杯なのだろう、すれ違う人の表情もどこか明るい。</p>
<p><span id="more-7338"></span></p>
<p>朝食はパンやジャニケケ（小麦粉を水で溶いて揚げたもの）、夕食はバナナやユカを茹でたものと決まっているから、肉と米が中心の昼食が待ち遠しい。これほど楽しみにされると、母親たちも気合いが入るというものだ。別の場所に暮らす子どもがふらりとやってくるのにそなえて、人数分よりは多めにつくっておく。そうすれば、急な来客（昼の時間を狙って来る人も多い）にも対応できるし、家事を手伝ってくれるメイや隣人にも顔がたつ。母親がつくる昼食によって親子・親類・隣人同士がつながる、この生活スタイルを私は勝手に昼食至上主義と呼んでいる。</p>
<h4>ポージョ・ベルデ!!</h4>
<p>昼食至上主義の主役は鶏肉である。調理法はバラエティに富んでいる。揚げる、煮こむ、蒸し焼き、炊きこみ･･････いずれも骨ごと調理するので、ご飯によくあう濃厚な味つけになっている。頭以外は、全部食べ尽くす。ドミニカに来てはじめて首や足先の丸揚げを食べたが、はじめに淡白な肉の味がして、次に骨からしみでた甘みが口のなかにひろがり病みつきになった。</p>
<p>味もさることながら、鶏肉は、そのほかの家畜（山羊、牛、豚）にくらべて値段が安く、パティオ（裏庭）で簡単に飼育できることもあって、ながらく庶民の味方だった。それだけではない。クリスマスやセマナ・サンタ（聖週間：イースター）には、大量の鶏が絞められ人びとの口に入る。宗教行事に欠かせない食材としての顔もある。ところが、毎年のように物価があがり続けると、聖域であった鶏肉でさえ例外ではなくなった。鶏一羽の値段は、280ペソ（2011年2月現在：約600円）。3年前から50ペソの値上げである。</p>
<p>ある日、レイナが昼食の献立を決めかねていると、通りから「ポージョ・ベルデ!!　3つで2ペソだよ」とのかけ声が聞こえてきた。アグアカテ（アボカド）を売る声だ。メキシコ料理ですっかりお馴染みのアボカドは、中米が原産の果物である。ビタミンが豊富なうえに値段が安く、ドミニカでも昼食時にサラダ感覚で食されている。</p>
<p>そういえば、と、まだ病気をするまえのレイナが好んで使っていたジョークを思いだす。「3人の食べ盛りの子どもを育てていたころは、生活費が底をつくと、昼食は白米と豆の煮こみだけなんて日はざらにあったわ。肉なんて滅多に口にできなかった。でも、こうしていまでも生きていられるのは、弁護士が助けてくれたおかげよ」というもの。弁護士はスペイン語でアボガド。英語のアボカドとほぼ同じ発音であることからくる単純な語呂あわせなのだが、ドルに頼らなくてもよかった時代への郷愁をともない、笑いを誘う。</p>
<p>ようやく献立が決まった。白米にフアンドゥーレ（豆を煮こんだスープ）、それにアボカド。結局、この日も鶏肉を買うことはできなかった。苦肉の策ともいえる献立だが、ポージョ・ベルデは日本語で「緑の鶏」。思わずうなってしまった。苦しい自分たちの生活までもジョークに変えてしまう。毎日、家計をやりくりするのは苦しいに決まっている。手に入らないことを嘆くのではなく、受け入れる。だけどそこには、ユーモアがあったほうがいい。「緑の鶏」を食べながら、いつのまにか肩の力が抜けていく自分がいた。</p>

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		<title>第31回　野球狂顛末記②－塀のなかの生活－</title>
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		<pubDate>Wed, 13 Jul 2011 04:13:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
		<category><![CDATA[スポーツ]]></category>
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		<category><![CDATA[窪田暁]]></category>

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		<description><![CDATA[写真：自由の身だったときのロヘリオ。ドミニカ共和国、バニの浜辺にて 刑務所へ この日も太陽は容赦なく照りつけていた。 べへのバイクに揺られながら、塀のなかのロヘリオを思いうかべる。はやくも氷水の入ったペットボトルからは水 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2011/07/transbborderplayers-31-01-5401.jpg" alt="自由の身だったときのロヘリオ。ドミニカ共和国、バニの浜辺にて" title="transbborderplayers-31-01-540" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-6818" /><br />
写真：自由の身だったときのロヘリオ。ドミニカ共和国、バニの浜辺にて</p>
<h4>刑務所へ</h4>
<p>この日も太陽は容赦なく照りつけていた。<br />
べへのバイクに揺られながら、塀のなかのロヘリオを思いうかべる。はやくも氷水の入ったペットボトルからは水滴が漏れはじめ、ベヘがギアを変えるたびにズボンの膝に染みをつくった。ベヘの背中が緊張している。私は昼食の入った網カゴを傾けないことに意識を集中し、それ以外はなにも考えないようにした。</p>
<p>刑務所は、街の入口を流れる川のふもとにある。受付にはすでに大勢の面会人の列ができており、私と同じく手に網カゴをぶらさげていた。パスポートと引き換えに入場札を受けとると、身体検査の列に並ぶ。さきに済ませたベヘが、すれ違いざまに意味ありげな笑みを投げかけてきた。パンツのなかまでチェックされるのだ。映画でしか目にしたことのない光景に、どうふるまっていいかわからない。さきほどから、地に足がつかないような感覚がつづいており、それは差し入れの昼食をチェックされているあいだもやむことはなかった。</p>
<p>塀の内側に入ると、バスケットコートほどの大きさの中庭に出る。その中庭を取りかこむ形で、4つの棟が建っている。中庭にいた男たちの視線が、いっせいに私に向けられ、値踏みをするかのようにずっとまとわりついて離れない。ベヘが知りあいを見つけて声をかけるまでは生きた心地がしなかった。これが塀のなかというものなのか。</p>
<p><span id="more-6816"></span></p>
<h4>鳩の巣</h4>
<p>ベヘの知りあいにロヘリオの棟へと案内してもらう。身体をよじらないと人とすれ違えないほどの狭い廊下には、鉄格子のついた牢屋ではなく、寝台車の2段ベッドのようなものがズラリと並んでいる。ベッドには、ベニヤ板が打ちつけられていて、なかが見えない。鍵のついた扉には通気孔がわりの丸い穴がぽっかりと開いていた。「まるで鳩の巣みたいだろ」とベヘの知りあいが自嘲気味につぶやく。それにしても暑い。窓もなく、風がまったく通らないから夜も寝苦しいはずだ。これでは鳩の巣のほうがマシではないか。</p>
<p>2階の鳩の巣からロヘリオが顔をのぞかせた。暗闇にまだ目が慣れないためにはっきりと表情がつかめないが、頭にはいつものリセイの帽子があった。それが私にはうれしかった。昼食の網カゴを渡すと、寝床にある皿に移しかえるために顔を引っこめた。しばらくして、階段を降りてきたロヘリオの顔はやはりやつれて見えた。ベヘに言われて、あらかじめ用意しておいた200ペソ札2枚を、握手のときにすべりこませる。彼はまわりに気づかれないようになに食わぬ顔でズボンのポケットにしまいこんだ。熟練の早業だった。</p>
<p>ロヘリオの案内で5人いるというバランコネス出身者を訪ねることになった。別棟に向かうために、ふたたび中庭をぬける。若いころは喧嘩に明け暮れていたというだけあって、ベヘにあちこちから声がかかる。そのたびに立ち話をして小銭を渡している。ドミニカの面会は楽ではないと思ったが、「もっと25ペソ硬貨を用意してくればよかった」とつぶやいたベヘの顔は、どこか誇らしげだった。立ち話を聞いていると、ここには麻薬、窃盗、殺人と、ひと通りの犯罪者がそろっている。刑期も数か月から終身刑まで。ようは、バニ中の犯罪者がここに押しこめられているのだ。小銭をせしめた男たちは、塀のなかまでやってくる行商人から、さっそく煙草やコーヒーを買いもとめる。その様子をまわりの男たちが無言で眺めていた。いく筋もの邪視が交錯していた。</p>
<h4>地獄の沙汰もカネしだい</h4>
<p>最後に訪ねたフアンカルロスの部屋はまさに特別室だった。部屋は10畳ほどの広さで、テレビと扇風機、それに冷蔵庫まで備えつけてある。ちょうど恋人らしき女性がベッドに腰かけていた。なるほど、そういうことなのかと納得した。必要なものがあれば、敷地内にあるコルマドで買うことができる。昼食は家族が毎日届けてくれる。カネさえ払えば塀の外と同じ生活ができるというわけだ。ベヘが例のように25ペソを渡そうとしても頑として受けとらない。<br />
「カネはいいよ。おまえは、バランコネスからはじめて面会に来てくれた友だちだ。その気持ちのほうがうれしいよ」<br />
カネでは手に入らないものがある。塀のなかの特別室で彼は悟ったのだ。</p>
<p>ロヘリオのほうをちらっと見やったけれど、とくに表情に変化はない。鳩の巣に帰るロヘリオと肩を並べながら、ラジオは聞けるのか、と私はたずねた。「うん。でも、今年のリセイは負けてばかりだけどね……」まるでおまえみたいじゃないか、とは言えなかった。塀のなかを見たあとではなおさらだった。</p>
<p>帰り道、ふたりの口が自然と重くなる。ロヘリオの老母に網カゴを返しに行くまえに、コルマドで休んでいくことにした。椅子に腰かけたとたん、一気に疲れが押しよせてきた。<br />
「どれくらいで出られるかな？」<br />
「…………」<br />
「もう少し、カネを渡してあげればよかった」<br />
「…………」<br />
煙草を吸い終えると、ようやくベヘが口を開いた。<br />
「Asi es la vida（これが人生だよ）」<br />
いつのまにか雲がたちこめ、雨が降りはじめた。周囲の喧騒が雨音でかき消される。別れぎわに「また来てくれ」とつぶやいたロヘリオの寂しげな表情が頭から離れず、いつまでも消えなかった。</p>

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		<title>第30回　野球狂顛末記①－渡航費用の代償―</title>
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		<pubDate>Sun, 12 Jun 2011 00:00:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
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		<description><![CDATA[写真：母親が準備をしたロヘリオの昼食。ドミニカ共和国、バニにて 壁の落書き 毎朝、近所のコルマドへパンを買いに行くのが私の日課である。ある日、ロヘリオの家のまえを通りかかったときにいつもと違うことに気がついた。「Roge [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2011/06/transborderplayers-030-01.jpg" alt="母親が準備をしたロヘリオの昼食。ドミニカ共和国、バニにて" title="母親が準備をしたロヘリオの昼食。ドミニカ共和国、バニにて" width="540" height="405" class="alignnone size-full wp-image-6672" /><br />
写真：母親が準備をしたロヘリオの昼食。ドミニカ共和国、バニにて</p>
<h4>壁の落書き</h4>
<p>毎朝、近所のコルマドへパンを買いに行くのが私の日課である。ある日、<a href="/transborder-players/19-baseballphiles-departure/">ロヘリオ</a>の家のまえを通りかかったときにいつもと違うことに気がついた。「Rogelio no tiene la casa（ロヘリオには家がない）」と入口近くに落書きされていたのである。</p>
<p>平屋だろうが、高層マンションだろうが、ブロックを積みあげていくのがドミニカ流の建築スタイルである。外壁は、ブロックの表面にセメントを塗って下地にする。下地ができると、あとは施主の好きな色でペンキを塗れば完成である。どの町に行っても、素材がブロックから板にかわることはあっても、色とりどりに塗られた外壁はかわらない。強い日ざしが反射する、壁が立ち並ぶ通りを歩いていると虹のなかにいる感覚になる。なので、壁に文字が書かれてあると目をひく。たいていの場合は、「Se Vende（売り家）」「Se Alquila（入居者募集）」というものだから、内容が内容だけに、ロヘリオの家の落書きは異様にうつった。そういえばここ数日、彼の姿を見かけない。ロヘリオになにかあったのだろうか。胸騒ぎがした。</p>
<p><span id="more-6254"></span></p>
<h4>密航費用を工面する</h4>
<p>ロヘリオの年老いた母親が玄関から顔をのぞかせて、私を呼んでいる。80歳になってからは年齢を数えていないというので、正式な彼女の年齢を知るものはいない。敬虔なカトリック教徒で、年に一度は聖人サン・ミゲルに祈りを捧げるためにパロ（カトリックに西アフリカからの奴隷が持ちこんだ宗教が混ざった民間信仰の儀礼。円柱状の太鼓を打ちならして激しく踊る。かならず参加者の何人かはトランス状態におちいる）を催す。家のなかに足を踏み入れると、いくつかの聖人の写真が立てかけてあり、壁には亡夫とボストンにいる長女の写真が飾られてある。ロヘリオと17歳になる長女の息子の3人暮らしだが、家のなかに小さな子どもや女性のかまびすしい声がしないだけで、かなり淋しく感じられる。路地の喧騒が遠くにしりぞき、老婆の静謐さがそのまま空気となって家全体を覆っていた。</p>
<p>「刑務所にいるロヘリオに昼食を届けてくれないか」と言われたときは耳を疑った。なにをやらかしたのか。話はプエルト・リコへの密航へとさかのぼる。ドミニカからプエルト・リコにむかうにはジョラ（Yola）とよばれる小型船に40人ほどが乗りこんでいくことは<a href="/transborder-players/19-baseballphiles-departure/">まえに書いた</a>。この密航にはやはり手配師がいて、渡航費用を徴収する。相場は、日本円にして30万円以上。建築現場の日当が2000円だから、工面するのは至難の業である。ロヘリオはどうやってかき集めたのか。</p>
<p>家族のなかにアメリカで暮らすものがいる場合、渡航費用の大半は彼らが負担する。移民先での生活に余裕があるわけではないが、頼まれるとけっして拒まない。兄弟姉妹やイトコ、甥や姪、それに<a href="/transborder-players/17-jingi-of-compadre/">コンパドレ</a>といった近親者が来てくれることがうれしくてたまらないし、その費用を負担することで、相手への思いを証明することにもなるからだ。</p>
<p>ロヘリオはボストンにいる姉から渡航費用の半分を送金してもらった。残りの半分は、家の登記書類を担保に近所のお金持ちから借りた。ただし、この書類は偽物だった。</p>
<p>もちろんこんな稚拙な寸借詐欺はすぐに露呈する。しかしである。人生に「たられば」などはないのだけれど、もし、無事にプエルト・リコを経由して、ボストンに到着していれば、仕事さえみつかれば短期間に返済のできる金額だったし、近所のお金持ちにしても待ってくれたはずだ。それを証拠に、警察がやってきたのは、ロヘリオにメキシコの査証がおりなかったという噂がバリオじゅうにひろまったあとだった。ようやく落書きの意味を理解した。</p>
<h4>母親の昼食</h4>
<p>「亡くなった夫はほんとに真面目な人だった。息子だってこれまでに一度も警察のやっかいになったことなんてなかった」と老いた母がロヘリオにそっくりの早口で語る。「ボストンにたどりついてさえいれば、お金も返せたのに……」骨と皮だけの腕が、半袖の開襟シャツからのぞいている。首には十字架のネックレスがぶらさがっていた。</p>
<p>普段は、近所に住む次女の息子が昼食を刑務所のロヘリオに届けるのだが、この日は首都に行って不在である。そこで刑務所の面会日（水曜と日曜）ということもあり、私に頼もうと思ったのだ。机にはすでに昼食の入った網カゴがあった。その隣で聖母カルメンが微笑みを浮かべていた。</p>
<p>共通の友人であるべへに電話をかけて一緒に行ってくれるように頼む。もちろん、というふたつ返事のあとで気になることを言った。「靴はダメ。サンダルに履きかえてこい。腕時計とサングラスと帽子もダメ。それから……パスポートを忘れずに」5分後に迎えに行くとの言葉を残して電話はきれた。服を着がえると冷たい水をコップに2杯、たてつづけに飲みほした。いっこうに身体の火照りはおさまらなかった。不安とも焦燥ともつかない感情がわきあがってきた。ドミニカの刑務所は想像もつかないが、ロヘリオは元気だろうか……。</p>
<p>（次回につづく）</p>

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		<item>
		<title>第29回　ソーナ・フランカ</title>
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		<pubDate>Wed, 27 Apr 2011 04:32:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
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		<category><![CDATA[ドミニカ]]></category>
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		<category><![CDATA[人類学]]></category>
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		<category><![CDATA[野球]]></category>

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		<description><![CDATA[写真：ソーナ・フランカの作業風景。ドミニカ共和国バニにて ドミニカ経済の救世主 天井の低い体育館のような建物に作業机が何百台と並んでいる。その頭上には、手もとを照らすための蛍光灯がぶらさがっている。ミシンで袖を縫いつける [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2011/04/transborderplayers-029-01-540.jpg" alt="" title="transborderplayers-029-01-540" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-6030" /><br />
写真：ソーナ・フランカの作業風景。ドミニカ共和国バニにて</p>
<h4>ドミニカ経済の救世主</h4>
<p>天井の低い体育館のような建物に作業机が何百台と並んでいる。その頭上には、手もとを照らすための蛍光灯がぶらさがっている。ミシンで袖を縫いつけるもの、アイロンで皺をのばすもの、ボタンを手作業でとりつけるもの。私が訪ねた建物だけでも500人ちかい労働者がいた。大半は女性であるが、男性の姿もちらほら見かける。彼らがタンクトップやTシャツという普段着のまま仕事をしているのが、私には新鮮だった。</p>
<p>「こんなところで何してるの？」と声をかけられた。見れば私の調査地に住む女性である。このとき、ひとつの風景にすぎなかった空間に生の営みが満ちてきて、俄然、いきいきと輝きはじめた。ひとりひとりの顔に表情がうかびあがり、はっきりと自己主張をはじめた。ソーナ・フランカ、おもしろそうじゃないか……。</p>
<p><span id="more-6136"></span></p>
<p>ドミニカ経済の低迷で失業者が増加した1980年代後半。救世主との期待をうけて現れたのがソーナ・フランカ(フリーゾーン）―海外から衣類などの未完成品を持ちこんで、工場で製品に仕立て、第三国（おもにアメリカ）に輸出するもの―である。ドミニカ政府は原材料の輸入に対して関税を課さない。ほとんどの工場は、地方都市の郊外に建てられていることから、その目的は地域の雇用対策である。実際に、ドミニカの地方都市では安定収入を得られる企業の数は少なく、日雇いの建築作業員かコンチェロ（バイクタクシーの運転手）、チリペロ(行商人)などのインフォーマル・セクターに従事する労働人口の割合が高い。ソーナ・フランカが導入されたとたんに失業率が一気に改善したことを考えると、救世主という表現もあながちおおげさではないだろう。</p>
<p>冒頭の工場は、バニ市街から塩田で有名なサリーナスへと向かう道路沿いにある。韓国人が経営するこの工場には、GAPのポロシャツなどの衣類が、お隣の国ハイチから袖と胴の部分が別々に梱包されて送られてくる。それをこの工場で縫いあわせて製品化するのだ。人口10万人のバニ市にあるこのソーナ・フランカで、2,000人ほどの従業員が働いているのだから、かなりの世帯がこの工場によって安定収入を得ていることになる。</p>
<h4>ソーナ・フランカの効用</h4>
<p>バニ市はドミニカ国内でも有数の移民送出地域である。年間を通じて温暖な気候にめぐまれているため、かつては農業が盛んであった。コメにユカ、プラタノにマンゴー、サトウキビにコーヒーといったドミニカの食卓には欠かせない主要農産品の生産地として知られていたし、ほとんどの住民が農業に従事していた。ところが、農作物の国際価格が低下するのに呼応して、農業離脱者が増加する。農業を放棄した人びとは雇用をもとめて首都サント・ドミンゴへと向かった。そこにアメリカへの移民ブームが拍車をかけ、いまでは農業に従事するものを私の調査地ではほとんど見かけなくなった。</p>
<p>この移民ブーム、じつはソーナ・フランカがうみだしたともいえる。ソーナ・フランカで働いた経験は、インフォーマル・セクターでの労働に従事していた地方都市の人びとに、安定収入への渇望を植えつけた。</p>
<p>「夫はコンチェロ（バイクタクシーの運転手）だけど、一日に稼いでくるお金なんて知れてるわ」こう語るのは、さきほど声をかけてくれた女性。彼女は28歳ながら、すでに3人の子どもの母親である。末の子が3歳になり、おばあちゃんに預けられるようになったのを機にここで働くようになった。家に着くころにはぐったりと疲れきって、ベッドに横たわる毎日という彼女だが、「15日おきに確実に決まった額をもらえる魅力にはかえがたいわ」とのこと。とはいえ、月額にして5,000ペソ(約1万2,500円)ではとてもじゃないけど贅沢はできない。このところずっと考えているのは、「やっぱり、ヌエバジョルク(ニューヨーク)だわ」。</p>
<p>彼女の移民願望を熟成したのは、安定した雇用制度を提供するソーナ・フランカだった。また、彼女のようにドミニカでアメリカ的なるものに触れた人たちが、近い将来、アメリカに渡って行くケースが少なくない。ソーナ･フランカで｢潜在移民｣が養成されているのだ。</p>
<h4>アカデミーとソーナ・フランカ</h4>
<p><a href="http://www.shimizukobundo.com/transborder-players/20-american-way/">第20回にベースボール・アカデミー</a>をとりあげたが、そのアカデミーとソーナ・フランカには驚くほどの共通点がある。現地で安価な原材料（野球少年）を調達し、工場（アカデミー）で会社（球団）が製品を選別して加工をほどこし（トレーニング）、アメリカの基準にあった製品（選手）だけをおくりだす形態である。それだけではない。夢かなわず、アカデミーを去った選手の多くが「潜在移民」となり、のちにアメリカに渡っていくことまで同じなのだ。</p>
<p>作業や練習を眺めているうちは、工場労働者や野球選手というイメージにすぎなかった人びとが、彼らがなにを経験し、なにを感じているのかを知ることで、無機質な風景に血が通いだす。肉声にふれなければなにもわからない。そんなあたりまえのことをソーナ・フランカが教えてくれた。</p>
<p>（隔週日曜更新）</p>

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		<title>第28回　多言語の海を泳ぐ子どもたち</title>
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		<pubDate>Sun, 27 Mar 2011 00:00:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
		<category><![CDATA[スポーツ]]></category>
		<category><![CDATA[ドミニカ]]></category>
		<category><![CDATA[フィールドワーク]]></category>
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		<description><![CDATA[写真：算数の問題を解く外国籍児童。中津小学校日本語教室にて 日本語学級 「3の段までできるようになったか。すごいな」先生にほめられたコウジ（日系ドミニカ・小学2年生）は、顔をくしゃくしゃにさせてうれしそうだ 。九九カード [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2011/03/transborderplayers-028-01-540.jpg" alt="" title="transborderplayers-028-01-540" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-6030" /><br />
写真：算数の問題を解く外国籍児童。中津小学校日本語教室にて</p>
<h4>日本語学級</h4>
<p>「3の段までできるようになったか。すごいな」先生にほめられたコウジ（日系ドミニカ・小学2年生）は、顔をくしゃくしゃにさせてうれしそうだ <sup>[<a href="#28-children-in-the-multilingual-sea-n-1" class="footnoted" id="to-28-children-in-the-multilingual-sea-n-1">1</a>]</sup> 。九九カードという教材を使って、各段を暗唱できれば合格。<br />
「アサガオ、オカシ……」少しはなれた席から、先生のことばをタドタドしく復唱する声が聞こえる。別の先生が電子辞書を片手に、フィリピンから来日してまだ2週間の女の子につきっきりで教えているのだ。もうひとつの島では、3年生のエリカ（日系ブラジル）とヨシタカ（日系カンボジア）が通常学級であった算数のテストを復習中。ふたりとも日本語で書かれた文章題に苦戦している様子がうかがえる。</p>
<p>愛川町立中津小学校の日本語学級での授業風景である。全校児童626人のうち、外国籍の児童は86人。日本国籍だが、日本語指導が必要な児童4人をくわえると90人の子どもが外国にルーツをもつ。このなかで日本語学級にまなぶ児童は45人である。中津小では、3人の日本人教員と母語通訳者3名（スペイン語、1名はポルトガル語通訳も兼任・週に2回）が日本語学級での指導にあたっている。</p>
<p><span id="more-6028"></span></p>
<p>子どもたちは日本語運用能力によって3つのレベルにわけられる。来日してまもない児童は、ある程度の会話ができるまで、母語通訳者が日本語を教える。読み書きがまだ苦手な児童と、日本語の微妙なニュアンスがわからない児童が通常学級の算数と国語の時間にやって来る。エリカやヨシタカのように、解けなかった問題を持参して日本語学級の先生に教えてもらうのだ。</p>
<p>じつは3人の先生、誰ひとりとして日本語以外の言語を話せない。もとはといえば通常学級を受けもっていた教員だったから無理もない。だからということもないだろうが、さまざまな教材や道具を試したり、簡単なスペイン語を覚えたりと、子どもたちと一緒に試行錯誤をくり返してきた。それは、公立学校の多言語化が、ここ10年くらいの新しい現象で、教育現場にたずさわる人びとにとって、毎日がはじめて経験することの連続だからだ。</p>
<h4>バイリンガリズム</h4>
<p>2時間目の授業のチャイム。ドミニカ系の児童がやって来ない。「ドミニカの子ってのんびりしてるんだよな。そんなことないですか?」と先生に聞かれる。言われてみれば、時間なんてあってないようなものだったなあ……と滞在中のことを思いだしていると、勢いよく教室の扉が開いて体格のいい男の子が入ってきた。ヒロシ（日系ドミニカ・5年）は時間に遅れたことに悪びれた様子も見せずに「先生、今日なにやんの」とマイペースである。</p>
<p>2時間目が終わった後の休憩時間に、ヒロシに話を聞いた。ドミニカで生まれてすぐに、日本にやってきた。2年生のコウジは弟である。野球が大好きで少年野球チームでは4番でファースト。話していてもどことなく鷹揚な雰囲気が伝わってくる少年だ。<br />
学校にいるときはほとんど日本語だという。南米系の友だちと話すときは、相手が得意なことばにあわせる。それでも100%スペイン語ではなく、日本語がかならず混じるのだそうだ。反対に、家ではスペイン語である。両親がスペイン語で話すようにとうるさいからだ。使わないとスペイン語を忘れてしまうとの理由だそうだが、日本語が苦手な親は多いのである。親が病院に行くのに、通訳として連れて行かれ、学校を休んだことがあると聞くとバイリンガルの子どももなかなか大変だと思う。</p>
<p>掃除の時間に教室をのぞいてみた。ヒロシは、日系チリ人の友だちと格闘技をして遊んでいた。ふたりはスペイン語を使っていた。そうかと思うと、その数分後には「トイレの神様」を鼻歌で歌いながら、ほうきで床を掃除する。まわりの日本の子どもたちは、とりたてて気にもとめてなさそうである。同じクラスには、ヒロシ以外にも日系ペルー人やラオス人の子どもがいる。そんな光景を眺めながら、この環境が特別なことではないという感覚を大人になっても忘れないでほしいと心のなかで願わずにはいられなかった。</p>
<h4>多言語化の先にあるもの</h4>
<p>日本語学級の目的は、外国人児童の日本語能力を向上させること。授業風景を観察していても、なんとか子どもたちが落ちこぼれないようにとの教員の熱意と愛情が伝わってくる。しかしそこに違和感をおぼえたのも事実である。それは、コウジに国語が嫌いな理由を聞いたときだった。「もし、誰かがスペイン語に訳して読んでくれたら解けると思う」と言ったのだ。小学生のころに来日した子どもは日本語と母語双方で読み書きが苦手な傾向にある。どちらの言語でも文章で書かれたものをきちんと理解し、考えることができない、いわゆる｢ダブル・リミテッド｣である。問題の背後には、国家の移民言語にたいする政策理念が示されぬうちに、外国人児童が増加し、学校現場が制約のなかで独自に対応しなければならなかったことがある。コウジは小学校に入学するまでは、日本語をほとんど話せなかった。しかし、制度上の問題から、母語教育を受ける機会はいまだに訪れていない。</p>
<p>5時間目。2年生のファティマ（日系ドミニカ）、ユウコ（日系ペルー）、それに日系イラン人のサマンをくわえた女の子3人がクレヨンで絵日記を描いている。ファティマが「ムズイ、図書館ぬんのー」と先生に甘える。私語はすべて日本語だ。と、サマンがユウコに「rojo（スペイン語で赤）貸して」と頼んだのだ。私は一瞬、自分の耳を疑った。混乱した。おもわず彼女に話しかけた。「サマンちゃんは、イランでしょ？」「ユウコとファティマが使うから覚えちゃった」と涼しい顔で教えてくれた。</p>
<p>私は日系ドミニカ人の子どもたちが、母語であるスペイン語をどれだけ使って、どれだけ使っていないのかということを調べるためにこの学校を訪れたのだが、そういう前提が誤りだったことをサマンが気づかせてくれた。友だちが使用する単語をおそらくは自然に借用したのだ。多民族学級ならではのエピソードである。同時に母語と日本語だけの関係にとらわれていた思考を揺さぶられ、ちょっとした心地よさを味わった。そして、こうして現実に進行する多言語化が、近い将来、この国の単一言語主義を揺るがす嚆矢となりうるのだとの期待をさせてくれた。</p>
<p>5時間目の終わりを告げるチャイム。コウジが元気いっぱいの声で「これで5時間目の算数の勉強をはじめます」と挨拶。すかさず「はじめますじゃなくて、終わりますだろ」と先生が笑いながら訂正をした。</p>
<ol class="footnotes">
	<li class="footnote" id="28-children-in-the-multilingual-sea-n-1"><strong><sup>[1]</sup></strong> この回に登場する子どもたちの名前はすべて仮名。括弧のなかの「日系」は両親または祖父母のいずれかが日本人であることを表す。 <a class="note-return" href="#to-28-children-in-the-multilingual-sea-n-1">&#x21A9;</a></li></ol>

<p>（隔週日曜更新）</p>

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		<title>第27回　親の故郷は外国だった</title>
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		<pubDate>Sun, 20 Mar 2011 00:00:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
		<category><![CDATA[スポーツ]]></category>
		<category><![CDATA[ドミニカ]]></category>
		<category><![CDATA[フィールドワーク]]></category>
		<category><![CDATA[人類学]]></category>
		<category><![CDATA[移民]]></category>
		<category><![CDATA[窪田暁]]></category>
		<category><![CDATA[野球]]></category>

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		<description><![CDATA[写真：ボランティア団体が主催するイベントに出展する各国の屋台。神奈川県愛川町にて 日系人コミュニティ 小田急電鉄の本厚木駅から車で北に30分。混雑する国道を避け、中津川に並行して走る県道を行く。のどかな田園風景がしばらく [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2011/03/transborderplayers-027-01-540.jpg" alt="" title="transborderplayers-027-01-540" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-5949" /><br />
写真：ボランティア団体が主催するイベントに出展する各国の屋台。神奈川県愛川町にて</p>
<h4>日系人コミュニティ</h4>
<p>小田急電鉄の本厚木駅から車で北に30分。混雑する国道を避け、中津川に並行して走る県道を行く。のどかな田園風景がしばらく続き、やがて遠くに見えていた八菅山が徐々にせまってくる。ところが中津川を渡り、坂道を登りきると、住宅街へと景色が一変する。県道54号線を境にその先には、厚木市にかけて内陸工業団地がひろがっている。豊かな自然のなかにつくられた工業団地と古くからある市街地。それが、神奈川県愛川町をはじめて訪れたときの印象であった。</p>
<p>県道沿いのコンビニに飲み物を買うために立ち寄る。レジで私の前に並んでいたのは、ニット帽を深くかぶったラテン系の女性。私の視線を感じたのか、支払いを終えた彼女は警戒するようなまなざしでこちらを一瞥すると、足早に店を後にした。道路をはさんだ向かいにはブラジル食材店。その二階にはタイ料理店の看板がかかっている。目の前を通り過ぎる車の何台かは、外国人がハンドルを握っている。そのすべてが、もうなん年も前からこの町で暮らしてきたといった風情を醸しだしていた。</p>
<p>これはのちに知ったことだが、愛川町の人口4万3,000人のうち、2,600人が外国人であり、そのほとんどが自動車メーカーの下請工場を中心に、製造関連の企業が集まる内陸工業団地で働いているということ。また、その出身地域も中南米からの日系人以外にタイやフィリピンなど多岐に渡っている。</p>
<p>1990年に出入国管理法が改正され、日系人に対する就労制限が緩和されるとブラジルやペルーから大量の日系人が来日した。群馬県大泉町にブラジル人が集住していることは有名だが、愛知県豊橋市や静岡県浜松市といった東海地方にも南米出身の日系人がたくさん暮らしている<sup>[<a href="#27-my-parents-born-abroad-n-1" class="footnoted" id="to-27-my-parents-born-abroad-n-1">1</a>]</sup>。そして、実はここ愛川町こそが国内最大の日系ドミニカ人集住地区なのである。</p>
<p><span id="more-5947"></span></p>
<h4>イメージとのギャップ</h4>
<p>「日本人の友だちはほとんどいないよ」居酒屋で刺身をつまみながら、日系ドミニカ人のタケシさん（仮名・38才）が日本での生活についてゆっくりと語りはじめた。月曜日から土曜日まで毎日、トラックの内装を組み立てる工場で働き、繁忙期には日曜日も仕事に出る。そのためにドミニカ系の友人と過ごす時間すらあまりない。日本人の友だちをつくる時間がないと言うのもうなずける。しかし、妻と娘2人をドミニカに帰国させたと聞くと、日本人の友だちがいない理由はほかにもあるのではないかと私は思った。</p>
<p>「娘が学校でイジメられたんだよ」日本語で話すときには時折、単語を探しながらになる。こみいった話や感情が高ぶった際にはスペイン語に切り替える。そのほうが彼も話しやすそうだ。娘は顔つき、話しかたをからかわれ、学校に行くのが嫌になった。中学校にあがり、授業の日本語についていけなくなったこともあって、もともと日本になじめなかった妻の強い希望で、家族離ればなれで暮らすことを決意したのだ。私はジョッキを握りしめたまま言葉をつげなかった。</p>
<p>両親は、日本政府の斡旋で1956年にドミニカに渡った。渡航後すぐに、与えられた土地が農業に適さない荒地であることがわかり、1959年までに入植した249家族1,319人のうちの半数は南米へ再移住するか日本に帰国した。ドミニカに残った500人ほどの日本人はドミニカ国内を転々とし、その子どもたちがいま、日本へと働きにきているのである。</p>
<p>タケシさんはドミニカで生まれた。当然ながらドミニカ文化のなかで育ったのだが、戦前生まれの両親からはことあるごとに日本人の礼儀正しさや勤勉さについて教えられ、また、そのようにしつけられてきた。だから、バブル景気のまっただなかに来日したときは日本人の言動が理解できなかった。</p>
<p>職場での嫌がらせは後を絶たない。日本人の班長が外国人にだけラインの作業から外れて、別の作業をするように指示することは日常茶飯事だ。同僚の若い日本人はあからさまに侮蔑のまなざしを投げかける。最近では黙って引きさがっているばかりではない。自分のほうが、ここでは熟練工であるという意識が強いし、日本の若者のだらしなさが我慢できないからだ。</p>
<p>制度にとまどうことがある。国民健康保険。来日当初はいまのように行政の窓口で多言語サービスがなかったこともあり、加入しなかった。のちに知り合いの日系人から加入したほうがいいとすすめられ役場に行くと、未納期間の保険料を納めないと加入できないと言われた。なぜ一度も病院に行かなかったのに、お金を払わないといけないのかが理解できなかったので加入しなかった。ところが、先日、職場で重い部品を持ちあげた際にぎっくり腰になり、救急車で病院に運ばれた。そのときの隊員の第一声が忘れられない。<br />
「健康保険にはいってますか」と聞かれたのだ。「ドミニカなら、まず大丈夫ですかって聞くんだよ。なんで保険のことを聞くの？　お金ちゃんと持ってるからって言うと、何も言わなくなった」日本で育った私には、保険証の有無によって搬送先を考えようという隊員の気遣いだとわかる。しかし、タケシさんにはそれが冷たく感じられたのだ。職場での嫌がらせ、娘が学校でイジメられたこと、両親の話していた日本との違い……。そういったもののすべてが、タケシさんの心を固く閉ざさせてしまったのだと私は思った。「人間はみんな死ぬんだよ。みんな一緒なんだよ」力強くはっきりとした日本語だった。テーブルの上にはほとんど手がつけられていない料理がそのまま残っていた。</p>
<p>店を出て明日も仕事だからと言う彼と別れてからも、後味の悪さは残ったままだった。大声で騒ぎながら歩く大学生らしき集団とすれ違った。そのとき、最後にタケシさんが漏らした言葉が頭をよぎった。「親のパイス(故郷)は外国だったよ」ドミニカで生まれ育ち、両親の生まれた国を知った男の重すぎる一言だった。</p>
<ol class="footnotes">
	<li class="footnote" id="27-my-parents-born-abroad-n-1"><strong><sup>[1]</sup></strong> 法務省ホームページ　「国籍(出身地)別市・区別外国人登録者」参照<br /><a href="http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001065021" target="_blank">http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001065021</a> <a class="note-return" href="#to-27-my-parents-born-abroad-n-1">&#x21A9;</a></li></ol>

<p>（次回3月27日更新）</p>

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		</item>
		<item>
		<title>第26回　ラティーノ・エキスプレス</title>
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		<pubDate>Tue, 15 Feb 2011 12:12:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
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		<category><![CDATA[ドミニカ]]></category>
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		<description><![CDATA[写真：ヘーズルトン行きの客を待つタクシー。ニューヨーク、マンハッタンのワシントンハイツにて 移民街をむすぶ 午前5時30分。スーツケースを足もとに置いて玄関先の道路で待つ。2011年１月下旬のペンシンルバニアの通りには除 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2011/02/transborderplayers-026-01-540.jpg" alt="" title="transborderplayers-026-01-540" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-5691" /><br />
写真：ヘーズルトン行きの客を待つタクシー。ニューヨーク、マンハッタンのワシントンハイツにて</p>
<h4>移民街をむすぶ</h4>
<p>午前5時30分。スーツケースを足もとに置いて玄関先の道路で待つ。2011年１月下旬のペンシンルバニアの通りには除雪車によって両端に押しのけられた雪が解けずに残っており、日の出まえの暗闇をやわらげてくれる。氷点下10℃では、ついさっき飲んだばかりのコーヒーの効き目もとっくに薄れ、つま先からじわじわと寒さがせまってくる。大型ワゴンのヘッドライトがゆっくりとこちらに向かってきた。ヘッドライトを数回点滅させたから、きっとあのワゴンに違いない。私も合図に応えるように右手をあげた。</p>
<p>ペンシルバニア州ヘーズルトンからニューヨークのマンハッタンに向かうには自分で車を運転するか、グレイハウンドバスを利用するのが一般的である。しかし、ドミニカ人の多くはニューヨークまでのガソリン代60ドルを払う余裕のない生活を送っている。長距離バスにしても、限られたダイヤや停留所からの移動を考えると不便である。そこで登場するのが、ドミニカ人経営の乗り合いタクシーである。</p>
<p><span id="more-5690"></span></p>
<p>ヘーズルトンでは現在、4つの会社がしのぎを削っている。毎日ニューヨークまでニュージャージー経由で5往復する。値段は15ドルで、玄関先まで迎えにきてくれる。ニューヨーク側の終点はマンハッタンのドミニカ人街、ワシントンハイツ。JFK空港へ行く客はここでタクシー会社が呼んでおいた、これまたドミニカ系のタクシーに乗り換える。追加料金35ドルを払っても合計で50ドル。3時間の距離がこの値段だから格安でしかも快適である。</p>
<p>運転手は私を拾うと、携帯電話の無線機能を使って会社に報告して、次の客に電話するように頼んでいる。車内にはすでに3人の先客がいた。みんな眠たそうに押し黙ったままだ。しばらくしてめあての家に到着。客の姿はない。運転手がクラクションを2回鳴らすと二階の窓にパッと明かりがついた。年配の女性客が「あきれるわね。二度寝してたんじゃないの」と誰にともなくつぶやくと、運転手が「朝一の便はだいたいこんなものさ」となれた口調で応じた。ともかく5分ほどこの二度寝氏を待って、また次の客が待つ家へとむかう。</p>
<h4>ドアトゥドア</h4>
<p>このタクシーを利用すると、ドミニカ人がどんなところに住んでいるかがわかる。まんべんなく広い範囲にわたっているが、ボデガ（ドミニカ系のグローサリーストア）の近所にはドミニカの国旗を窓にかけてある家を多く見かける。また大通りに面した住居もドミニカ人の割合が高い。元の住民が閑静な山手に引っ越して空き家となったところに移民が入居するケースが多いからだ。</p>
<p>ワゴン車が最後に向かった先は、こげ茶色のこぎれいなアパートの駐車場。高校生くらいの孫に身体を支えてもらって老婆がゆっくりと降りてきた。この時点ですでに出発時刻の6時を5分ほど過ぎていた。席に腰かけた老婆が「メガネを忘れてきたわ」と言って、またアパートの部屋に戻ろうとする。孫が「おばあちゃん、さっきカバンに入れてたでしょ!」と言ったが、それでもトランクに積んだカバンを開けて確認するまでは納得しない。私は9時30分までに空港に着かないといけないのに、と気持ちがあせる。結局、孫の言ったとおり老眼鏡はカバンから出てきた。15分のロス。乗客一同、なんともいえない表情である。私以外はドミニカ人ばかりが乗ったラティーノ・エキスプレスは高速道路へ繋がるバイパスに出ると、一気にスピードをあげた。</p>
<h4>ドミニカンタイム、アメリカンタイム</h4>
<p>車内での乗客どうしの会話を聞いていると、利用目的はさまざまだ。ニューヨークの家族を訪問するもの、ニュージャージーの会社に毎日通うもの、ニューヨークでしか手に入らないものを買いにでかけるもの、ニューヨークでボストン行きに乗り換えるもの、大学に通うもの……。ドミニカからの移民は当初、ニューヨークに集中した。その後、地価の高騰によって移民の仕事先の工場がニュージャージーやペンシルバニアに移転する。それを追いかけるように移民たちもペンシルバニアのこの街に引っ越してきた。いまでも多くの家族や友人がニューヨークにいる。お互いを訪問するのにこのドミニカン・タクシーが重宝されているのである。</p>
<p>ニューヨークへの入口であるワシントンブリッジに差しかかったのは午前8時30分。すでに通勤先に向かう車で渋滞中である。二列まえに座ってのんびりと隣の客と話している老婆がうらめしくなってきた。半時間かけて終点のワシントンハイツに到着。乗客たちはめいめいの方向に散っていく。私は運転手に手伝ってもらって、待っていたタクシーに乗りこむ。事情を話して飛ばしてもらうも空港に着いたときにはチェックインの時間を2分過ぎていた。航空会社の職員がにべもない口調で私に告げた。<br />
「2分過ぎたので本日の便には搭乗できません」<br />
「たったの2分だよね」<br />
「明日の便を予約してください」<br />
空港近郊のホテルに向かうシャトルバスを待っていると、あの15分がなければ飛行機に乗り遅れなかったのにと、悔しさがこみあげてきた。同時に、老婆がメガネを探しているときに運転手をはじめ乗客の誰ひとりとして老婆を責めるものはいなかったことを思い出した。二度寝氏のことも誰も責めずに待っていた。だとすれば、ラティーノ・エキスプレスとはなかなか粋な命名ではないか、と思わず笑みがこぼれた。</p>
<p>（隔週日曜更新）</p>

]]></content:encoded>
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		<title>第25回　それぞれの守護聖人</title>
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		<pubDate>Sun, 30 Jan 2011 00:00:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
		<category><![CDATA[スポーツ]]></category>
		<category><![CDATA[ドミニカ]]></category>
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		<category><![CDATA[移民]]></category>
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		<category><![CDATA[野球]]></category>

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		<description><![CDATA[写真： パトロナレスを前にバリオを行進する学生のバトン隊。ドミニカ共和国、バニにて 祭り囃子の誘惑 いつも冗談ばかり言っては場をなごませているベヘが浮かない顔をして、ひとり椅子に腰かけていた。おりしもバリオは年に一度のパ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2011/01/transborderplayers-025-01-540.jpg" alt="パトロナレスを前にバリオを行進する学生のバトン隊。ドミニカ共和国、バニにて" title="パトロナレスを前にバリオを行進する学生のバトン隊。ドミニカ共和国、バニにて" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-5622" /><br />
写真： パトロナレスを前にバリオを行進する学生のバトン隊。ドミニカ共和国、バニにて</p>
<h4>祭り囃子の誘惑</h4>
<p>いつも冗談ばかり言っては場をなごませているベヘが浮かない顔をして、ひとり椅子に腰かけていた。おりしもバリオは年に一度のパトロナレス（守護聖人の祭り）をむかえて浮かれモードである。お祭り男のベヘがこんなしけたツラをしていてはこちらの調子もあがらない。</p>
<p>「どうした、ベヘ？」<br />
「パトロナレスなんてなければいいのにと思ってさ……これから11日間、パトロナレスが続くだろ。普段は週末にしか飲まない酒が飲める。望むところさ。ただし金があればの話だ。ここ3日、建築現場の仕事がまわってこなくてスッカラカン。でも遠くから音楽が聞こえてくると、いてもたってもいられなくなる。で、結局行くんだけど金がない。人にたかるのは好きじゃないし、自分の金で好きなだけ飲めないなら、いっそのことはやく終わってくれたらいいのに……」</p>
<p><span id="more-5617"></span></p>
<p>パトロナレスはカトリック教徒が守護聖人に捧げる祭りである。それぞれの国、都市、バリオ、個人が異なる守護聖人を拝している。ドミニカでは1月21日が聖母アルタグラシアの日にあたり休日となる。この日はアルタグラシアを守護聖人とするオコアとイグウェイという街でパトロナレスがひらかれ全国から大勢の人が集まる。</p>
<p>私の調査地、バランコネスのパトロナレスは、毎年7月初旬に開催される。バリオ内の公園には遊具が設置され、公園を取りかこむようにビールとラム酒を売る屋台がずらりと立ち並ぶ。公園の入口にはステージと巨大なスピーカーがでんと腰を据え、そこから流れる大音量がバリオ中に響きわたる。風に乗って音楽が聞こえてくると、異国の地にいてさえ子どもの頃に待ちわびていた祭り囃子がよみがえり、俄然、心が浮きたつ。</p>
<h4>バリオの記憶</h4>
<p>パトロナレスの目玉は日替わりでメレンゲやバチャータの人気歌手がやってきてステージで生演奏をしてくれること。普通ならこんな小さなバリオのパトロナレスに人気歌手がくるはずがないのだけれど、このバリオ出身の2人の大リーガー、ミゲル・テハダ（オリオールズ）とルイス・ビスカイーノ（元ブリューワーズ）が数年前から歌手を呼ぶようになった。それを目あてによそのバリオからも多くの人がやってくるから、公園は足の踏み場もないほどの人混みでごった返し、即席の野外ディスコへと姿をかえる。</p>
<p>このパトロナレスがはじまったのは10年ほど前のこと。そもそもこのバリオの歴史はそんなに古くない。1979年にドミニカを襲った史上最大のハリケーン・デーヴィットによって家屋を失った人たちが移住してきたのがはじまりである。その揺籃期に教会の修道女が資金を集め、住民と力をあわせて学校や公園を整備し、バリオの基礎がつくられた。その労苦と功績を称え記憶にとどめるために、修道女が愛してやまなった聖母カルメンを守護聖人として、パトロナレスがひらかれるようになったのだ。</p>
<p>すでに修道女は亡くなり、年老いた移住第一世代の多くは騒々しい会場に足を向けることはない。そのかわりに、当時、まだ道端をかけまわっていた子どもたちが大人となって公園に集っている。酒を片手に先人に思いをはせるのが正しいパトロナレスの過ごし方だと思うのだが、現実はどうもそうではないようだ。フルボリュームのレゲトン<sup>[<a href="#25-patron-saint-for-each-n-1" class="footnoted" id="to-25-patron-saint-for-each-n-1">1</a>]</sup>で隣の人間の声も聞きとれないようでは、心を落ちつかせるなど至難の業だ。お祭り男ならずとも、朝まで飲んで踊りあかすぞ！　である。</p>
<h4>あらたな時代の守護聖人</h4>
<p>DJが10分おきに連呼する。「明日はサカリア・フェレイラス（バチャータの人気歌手）がやってきます。ミゲル・テハダとビスカイーノの協賛です」聞かされるほうはうんざりだ。わかったから、黙って金だけだしてくれよという気分になる。それにしてもビスカイーノという選手には驚かされる。毎年、パトロナレスの期間中に突然あらわれ、生家の隣人や旧友たちに札束をばらまいていく。たった2日間のオールスター休みを利用してとんぼ返りをするのだ。本人がやってくるのだからDJもしつこく連呼しないといけないわけだ。こうなると華美になる一方の祭りはいったい誰のためにと思ってしまう。その一方で、パトロナレスはパトロンと語源が同じだから、間違ってもいないかと納得もする。いつの日かこのバリオの歴史として語られる日がくるだろう。かつて野球選手の時代があったと。そういえば、テハダもビスカイーノも親が移住第一世代である。これが苦労する親の背中をみて育った彼らなりの流儀なのだと酔いがまわりはじめた頭で考えた。</p>
<p>人混みをかきわけてベヘがこちらにやってくる。手にはラム酒がしっかりと握られている。さてはビスカイーノに……？？？　「これで今年のパトロナレスも酒が飲めるぞ！」ベヘがひとつ大きく吠えた。それぞれにとっての守護聖人がいる。そういうことなのだと思う。とにかくお祭り男がやってきた。今日は朝まで帰れない。</p>
<ol class="footnotes">
	<li class="footnote" id="25-patron-saint-for-each-n-1"><strong><sup>[1]</sup></strong> プエルト・リコ、ドミニカで若者に絶大な人気を誇る激しいアップテンポのダンス音楽。過激で卑猥な歌詞のために、年配の世代には刹那的な若者世代の象徴として顔をしかめる人も多い。 <a class="note-return" href="#to-25-patron-saint-for-each-n-1">&#x21A9;</a></li></ol>

<p>（隔週日曜更新）</p>

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		<title>第24回　チチグアと少年</title>
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		<pubDate>Sun, 16 Jan 2011 00:00:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
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		<category><![CDATA[フィールドワーク]]></category>
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		<description><![CDATA[写真： あり合わせの材料でチチグアをつくるラモン。ドミニカ共和国、バニ カリブの風にのって バリオの人たちがセロ（丘）と呼ぶ場所がある。なんてことのないハゲ山で、でこぼこの岩がいたるところでむきだしになっている小高い丘。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2011/01/transborderplayers-024-01-5401.jpg" alt="" title="transborderplayers-024-01-540" width="540" height="405" class="alignnone size-full wp-image-5510" /><br />
写真： あり合わせの材料でチチグアをつくるラモン。ドミニカ共和国、バニ</p>
<h4>カリブの風にのって</h4>
<p>バリオの人たちがセロ（丘）と呼ぶ場所がある。なんてことのないハゲ山で、でこぼこの岩がいたるところでむきだしになっている小高い丘。乾季には干あがってしまう小川を渡り、子どもたちが草野球に興じる原っぱを抜けるとなだらかな坂の入口に出る。そのあたりはバリオの人たちのゴミ捨て場と化していて、いつも2、3頭の牛がゴミの山に鼻先を押しつけてエサを物色している。私は息をとめて悪臭の漂う一帯をやり過ごし、そこら中に散らばっている牛糞に足をすくませながら頂上をめざす。</p>
<p>これまで何度セロへと足を向けただろう。調査にいきづまるとここに来た。頂上までのぼって腰をおろすとここちよい風がやさしく頬をなでて、疲れを遠くに運び去ってくれる。眼下に広がるバリオはそのなかにいると息苦しかったはずなのに、こうして全体を見わたしていると、愛しく思えてくるのが不思議だ。なにより坂道ダッシュをしている野球少年のほかには誰もやって来ないのがいい。いつのまにかここが調査地で唯一ひとりになれる安息の場所となっていた。</p>
<p><span id="more-5506"></span></p>
<p>何度目かのセロへの逃避行の折だった。いつものように夕焼けに染まるバリオを眺めていると、視界に黒色のビニール袋が飛びこんできた。<br />
凧（チチグア）をあげているのだ――とはすぐにわからなかった。ビニール袋の凧がこんなに高くあがるとは想像もしなかったからだ。凧糸を眼でたどっていくと、かなり遠くのほうでまだ小学生くらいの少年がひとりで糸を操っていた。</p>
<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2011/01/transborderplayers-024-02-540.jpg" alt="" title="transborderplayers-024-02-540" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-5511" /></p>
<h4>ブリコラージュ</h4>
<p>ドミニカの子どもの遊びは素朴だ。ビー玉のあてっこにゴム跳び。バイクのタイヤを棒切れで押しながら歩くタイヤ転がし。飲料水タンクの蓋をボールがわりにした野球。車体には牛乳パックやペットボトルを使い、タイヤはミシンのボビンで代用した車のおもちゃ。いずれもゴミ捨て場から漁ってきたものばかりである。最近でこそテレビゲームも見かけるようになったとはいえ、子どもたちはどこからか廃材を探してきては、知恵をしぼって遊び道具に転用しているのだ。</p>
<p>貧しいバリオでは子どもにおもちゃを買ってあげられる家庭は少ない。凧を買うお金があれば、家族全員が3日間食事にありつける。「自分でつくれるものにお金を払うなんてバカげてるよ」とはラモンのセリフだ。そういえば何年かまえにラモンが凧をつくるのを眺めていたことがあった。そのとき、ドミニカでは凧をチチグアと呼ぶこと（ちなみにチチグアというスペイン語は辞書にない）。ほとんどの子どもが自分でつくれること。どこのゴミ捨て場に行けば糸がたくさん転がっているかといったことを教えてくれたのだった。いまでは、たいていの料理をてきぱきとつくってしまうし、見様見真似で覚えたバイクの運転もさまになっている。学校の勉強はさっぱりのラモンだが、ブリコラージュ（器用仕事＝身のまわりにあるあり合わせの道具や材料でものをつくること）の実践者としてたくましく育っている。</p>
<h4>自分の感覚を信じること</h4>
<p>生きる力とはきっとこういうことなのだと思う。なぜドミニカの人たちがことばも習慣も異なるアメリカでやっていけるのか、あるいは行ってみようと思えるのか。それは彼らがどんな環境でも生きていける強さを持っているからだ。その強さとは、これまでの経験で培った感覚を信じる強さである。人間は理性だけに頼りすぎると往々にして袋小路に迷いこんでしまいがちだ。そんなとき突破口を開いてくれるのはやはり自分の感覚でしかない。</p>
<p>少年はあいかわらず糸をきつく握りしめて空を見あげている。私には少年が指先に伝わる風の力をゆっくり時間をかけて身体に覚えこまそうとしているように見えた。ビニール袋の凧は少年に操られるがままに同じ場所を舞っている。</p>
<p>その光景を眺めているうちに、ふと自分が凧のようなものではないかと思えてきた。なにかに引っ張られて同じ所をぐるぐると舞っているだけの凧。調査に疲れた頭を休めるために……とはなんて滑稽な言い草だろう。頭を使うよりも自分の感覚をひたすら信じるべきではないか。廃材を探すようにバリオの人たちの声を聞きとり、拾い集めた材料でチチグアをつくるように論文を書くべきではないのか、と。そのチチグアが空高く飛ぶかどうかはわからない。それでもいいではないかと私は思った。</p>
<p>薄暮のなかでチチグアが霞みはじめていた。セロへの逃避行はこれで最後だ。</p>
<p>（隔週日曜更新）</p>

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		<title>第23回　勝利か死か</title>
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		<pubDate>Sun, 26 Dec 2010 00:00:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>窪田 暁</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
		<category><![CDATA[スポーツ]]></category>
		<category><![CDATA[ドミニカ]]></category>
		<category><![CDATA[フィールドワーク]]></category>
		<category><![CDATA[人類学]]></category>
		<category><![CDATA[移民]]></category>
		<category><![CDATA[窪田暁]]></category>
		<category><![CDATA[野球]]></category>

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		<description><![CDATA[写真： 命を賭した闘い。ドミニカ共和国、サント・ドミンゴの闘鶏場にて 街角の闘鶏場 「ブランコ（白）、ブランコ!」「アスール（青）、アスール!」 試合開始のベルが鳴っても、観客席の賭け金を煽る声はやまない。最前列に陣取っ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/12/transborderplayers-023-01-540.jpg" alt="" title="transborderplayers-023-01-540" width="540" height="405" class="alignnone size-full wp-image-5276" /><br />
写真： 命を賭した闘い。ドミニカ共和国、サント・ドミンゴの闘鶏場にて</p>
<h4>街角の闘鶏場</h4>
<p>「ブランコ（白）、ブランコ!」「アスール（青）、アスール!」<br />
試合開始のベルが鳴っても、観客席の賭け金を煽る声はやまない。最前列に陣取ったオヤジさんは腕組みのまま、一点を凝視してうごかない。まのびした実況の声が、ガジェータ（駄菓子）売りのかん高い声に折り重なる。その直後、首根っこを押さえつけられ、踵で蹴りあげられた鶏の悲痛な叫び声が、会場の怒号のなかをぬって私の耳にまで届いた。</p>
<p>その日、首都郊外の下町にはじめて足を踏みいれた。闘鶏を見るためである。バスを2台乗り継ぎ、教えられたところで降りる。来た方向に少し歩いて、ピカ・ポージョ（中華料理店）の角まで来たら左に曲がるように、たしかにジョアンはそう言った。</p>
<p><span id="more-5274"></span></p>
<p>私はひさしぶりに胸の鼓動が激しくなったことにとまどいをおぼえた。それが未知の場所にいる不安からなのか、これから目にする光景への期待からなのかはわからなかった。車が脇を走りぬけるたびに、一瞬の静寂がおとずれ、エンジン音が遠ざかるとふたたび騒音がうちよせる。そのときに砂埃が舞いあがり、下町の猥雑が、一日の終りの倦怠と高揚が、汗で濡れそぼったシャツにべったりとまとわりついた。あっというまであった。</p>
<p>入口ちかくでジョアンが待ってくれていた。2週間見なかっただけで、ずいぶん精悍な顔つきになっていた。入場券を買って彼を追いかけると、何十羽もの鶏が一羽ずつカゴに囲われている場所に出た。その脇には鶏の踵に鋭利なつけ爪をほどこす部屋があり、2人の男が作業に没頭している。獣の糞尿のにおいが鼻をついた。ふとボクシングの選手控室が頭に浮かぶ。タイトル戦をまえにしたボクサーが計量をすませ、セコンドからグローブを巻かれている、そんな緊張感があった。かかり気味の何羽かが隣のカゴにむけて狂ったように体当たりを繰り返している。極限までにたかめられた闘争本能が、一気に解放される瞬間を待っているのだ。怯えが形になって痛烈にせまってきた。ついさきほどの胸の鼓動を私は知った。</p>
<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/12/transborderplayers-023-02-540.jpg" alt="" title="transborderplayers-023-02-540" width="540" height="405" class="alignnone size-full wp-image-5275" /></p>
<h4>ジョアンの秘密</h4>
<p>ジョアンはドミニカでは珍しく口数の少ない、どちらかといえば地味な少年である。彼と出会ったのは、毎日のように通っていた首都の野球教室だった。ノックを受けているときも、打撃練習のときも、ほかの少年たちの順番が終わるのをじっと待っている、16歳とは思えない大人びたところのある少年だった。彼の姿が見えない日などは、いつもより早めに家路についたものである。<br />
彼は決まって水曜日の練習を休んだ。このことはずっと気になっていた。水曜日から翌週にかけて彼が来なくなったとき、私はコーチから電話番号を教えてもらい、近況をたずねてみることにした。</p>
<p>「どうしたの？　野球が嫌になったの」<br />
「べつにそういうことではないけど……」<br />
しばらく沈黙が続く。受話器のむこう側で幼い女の子の泣く声が聞こえてきた。言いにくい事情でもできたのか。<br />
「今度、家に遊びに行ってもいい？」<br />
「……」<br />
「どうしたの？」<br />
「サトルは闘鶏って見たことある？」<br />
「えっ!?　ないけど……」<br />
「じゃ、今度の水曜日にこっちに来なよ。案内してあげるから」<br />
グランドの彼からは想像もつかない快活さだった。聞けば、近所の闘鶏好きの金持ちから飼育係の仕事を頼まれたのだという。数が多いからエサやりだけでも大変なんだと、はずむ声で教えてくれた。</p>
<h4>闘鶏と野球</h4>
<p>ドミニカでは昔から闘鶏が盛んだった。とくに男性のあいだではいかに強い闘鶏を育てるかが、まわりからの評判につながった。エサを与え、水をぶっかけ、ほかの鶏とのスパーリングで鍛える。試合に勝てば1000ペソ（3000円）から2000ペソの賭け金を手にする。負ければ終りではあるが、強い闘鶏にめぐりあい、うまく育てあげ、そして永遠に勝ち続ければ……。</p>
<p>「こいつはと思った少年は家に住まわせて、なけなしの金をはたいてご飯を食べさせる。ビタミン剤の注射も週に1度はしたいところさ。で、毎日ここで野球を教えてね」<br />
ジョアンのコーチが教えてくれた。一攫千金の世界を生きている。少年たちのうちの誰かがアカデミーと契約すると、コーチには契約金の25％が入ってくるのだ。さらに選手がメジャー契約にまでたどりつけば、ふたたび契約金の一部が転がりこむ。これは選手がクビになるまで、毎年、繰り返される。もちろん、すべてがうまく運べばの話だが。<br />
「野球選手を育てるのは闘鶏を育てるようなものだよ」定職に就かずに寝食を惜しんで少年たちに寄り添う姿に静謐な狂気が漂う。負けることは命を失うこと。勝利か死か、である。</p>
<p>ジョアンと会場に移動する。殺気だった男たちの体臭にむせ返りそうになる。男たちが100ペソ（300円）を張る声は苦悶の底から絞りだされ、それを煽る声には邪鬼がひそんでいた。おそらく、その日の稼ぎを闘鶏につぎこまざるをえない生き方というものがあるのだろう。その銭を受け取る側にしても同じである。ドミニカ人の明るい笑顔の裏にこのような激しさが隠れていたことに戦慄をおぼえた。</p>
<p>私はジョアンが育てている鶏に張った。その鶏は、肩から羽根にかけて鮮やかな緋茶色におおわれていて、先端までのびる尻尾は黒一色に美しく染めあげられていた。この日のために交配をくりかえし、創られた人工的な美しさである。胴元の男に100ペソ紙幣を手渡したとたん、出尽くしたと思っていた汗がまた噴き出してきた。</p>
<p>試合開始のベル――観客席が揺れ、身体じゅうの血液が沸騰する。眼の奥が痛くなる。<br />
黒色が一閃した。ジョアンの叫び声が消えた。頭のなかが真っ白になった。</p>
<p>（次回1月16日更新予定）</p>

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