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第17回 コンパドレの仁義

2010年10月3日

ジョルキンの代父のジュニオール(右)は、父親ジョニーのコンパドレ。ドミニカ共和国、バニにて
写真: ジョルキンの代父のジュニオール(右)は、父親ジョニーのコンパドレ。ドミニカ共和国、バニにて

代父母(パドリーノ)選びは慎重に

カトリックが国教となっているドミニカでは、子どもが生まれると洗礼式をおこなう。そのとき、両親と一緒にその場に立ち会うのが代父母(パドリーノ)たち。みんなで祈りを捧げ、水で赤ん坊の身体を清める。この儀式が終わると、ようやく神の子としてこの世に生を受けたことが認められる。洗礼式がすめば彼らの役目が終わるのではなく、その子の成長を実父母とともに一生見守っていく責任を負う。もし両親が経済的に困窮したならば、代父母である彼らが食事を与え、服を買い与えるのだ。

このように重大な責任を負うことになるのだからパドリーノは慎重に選ばないといけない。幼馴じみや友だちであるからといって、安易に選んではならない。大切なことは尊敬できるか否か、信頼できるか否かである。なぜなら、子どもの代父母であると同時に、ことあるごとに自分の相談相手になってくれるのも彼らだからである。こうして選んだ相手とは、洗礼式以降は互いにコンパドレと呼び合い、常に敬意を払って接することになる。

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海を渡り、陸をゆく

2010年10月2日

2010年8月14日 イフェからイバダンにつづくバイパスにて

発車するやいなや、乗客全員が大声で祈った。
「神よ、どうかわれわれを無事に目的地へ連れて行きたまえ」

メーターの針は、時速90キロと110キロを行ったり来たり。風でおくれ毛が頬にあたって痛む。エンジンの上に座る太ももの裏は汗でぐっしょり。運転手がギアチェンジするたびに、シフトレバーと彼の右腕がわたしの左膝をつつく。走行距離は25万9027キロメートルを越えていく。

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まだ見ぬ孫たちへ

2010年9月25日

アブジャの司法学校に通うトインが、ラゴスの実家で暮らす息子のロティミを連れ、イフェのわたしを訪ねてくれた。ふだんは離れ離れに暮らす親子が一緒に過ごした、つかの間の3日間だった。

結局ね
一緒やったんよ、遠い異国の地へ行っても
みんながそう
嫉妬したり、抱きしめたり、絶交したり、祈ったり
うらやましい、愛おしい、腹立たしい、元気でいてほしい

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第16回 代理絵描人

2010年9月19日

ラモンの宿題の絵を描くアビ。ドミニカ共和国、バニにて
写真: ラモンの宿題の絵を描くアビ。ドミニカ共和国、バニにて

宿題はまかせた

学校から帰ってきたラモン(中学2年生)が画用紙を手に頭をかかえている。理科の宿題であたえられた課題は、生物の絵を描いてくること。勉強と名のつくものがことごとく苦手なラモンである。私にタコの絵を描いてくれと頼んだのはいいが、その絵のあまりの稚拙さに「やっぱりいいよ」と、顔には失望の色がありありと浮かんでいる。
どうやってこの難関を突破するのだろう? 向かった先は、友だちのジェウディのところ。1歳年下だが、留年したラモンとは同じクラスだ。彼も画用紙を前にして呻吟中である。ふたりがだした結論は、「多少の出費をともなうがアビに描いてもらうしかない」。

22歳のアビは、父親と姉と3人で暮らしている。それまで話したことはなかったが、いつも同年代の友だちとつるまずに、年下の少年たちとポーカーをしている姿が印象に残っていた。ラモンたちと訪ねた私が日本人と知るや、「核兵器が世界で初めて使用されたのは広島の原爆だ」とか「新幹線は時速が200キロ以上もでるんだ」などとラモンたちに話して聞かせるのだ。それ以降も街角でアビを見かけると、どこから仕入れてくるのか、世界の時事ニュースや科学技術の話題を近所の少年相手に話しているのにでくわすことになる。

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アーティストたちよ

2010年9月18日

金属の彫刻作品に「しわ」をよせ、かたちをつくっていくエル・アナツイ

降りやまない雨のなか、ナイジェリアから帰国した。残暑の厳しい日本にいて、9jaの朝の肌寒さを思い出せない日もあった。目が覚めてあの肌の感覚をとりもどす今日日、ひとりのアーティストが来日した。

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ココ

2010年9月11日

地面いっぱいにココを広げる労働者。2010年8月4日 イフェ、イロデ地区のココ集荷場にて

「個々」ではなく、「此処」と発音してみてもらえるだろうか。
そう、それが「ココ」のイントネーション。チョコレートの原料であるカカオのことを、「ココ」とナイジェリアの人たちは呼ぶ。輸入食品店にでも行かない限りチョコレートの姿を見ることはないけれど、ナイジェリアのココの輸出量は、世界でも五本の指に入る。

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第15回 2010年 ドゥアルテ通り

2010年9月5日

ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。
写真: ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。

植民地支配の遺産

ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、J.F.ケネディ。これらはすべて、首都サント・ドミンゴをはしる通りの名前である。なぜドミニカで歴代アメリカ大統領の名前が使われるのだろうか。

話は1905年までさかのぼる。アメリカがカリブ海地域を支配する拠点としてドミニカを選び、借金の形(かた)に関税権を召しあげた。これを機に資本家たちがやって来るようになり、それまでスペイン系によって独占されてきた金融業やサトウキビプランテーションを次々に買収した。サント・ドミンゴの区画整理がおこなわれ、通りの名前がつけられたのもこのころである。

すでにキューバ人によって伝えられていた野球が、この時期にドミニカ全土へと広まったのもこのような事情が背景にある。その時代から1世紀以上の時間が経過したが、通りの名は当時のままだ。このことは、今なおドミニカが、アメリカによる政治経済的支配下にあることを物語っている。

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父さんと母さん

2010年9月4日

アーティスト、パパケイの描くポピシとモミシ(ナイジェリア英語で、「父さんと母さん」の意)の肖像画。ラゴスの写真館で1976年に撮った、結婚してまもないころのふたりの写真を貸りて、それをもとに、パパケイに油彩で描いてもらった。ナイジェリアでは、アーティストに依頼して、肖像写真を肖像画にしてもらい、居間に飾ることがしばしば好まれる。贈りものとしても、価値の高いものとして喜ばれる。2010年7月22日、イフェ、モーレ地区のパパケイのアトリエにて。

「そうね、ポピシはモミシをすごく愛してたわ」
二女の大きな丸い目は、微笑みで細くなった。5年前、大学生だった彼女の下宿のテレビの上には、額縁に入れられたポピシの小さなモノクロ証明写真。いま、その写真は嫁ぎ先の家の鏡台に。

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染みた果汁

2010年8月28日

乾季の深まる1月から3月が旬の果物、カシュ。えぐみが強く、同時にハチミツのように甘い。果汁が「「服にた垂れないよう」」気をつけながら、、まる丸かじりして食べる。うすみどり色のへたを煎ると、割ってなか中からででてくるナッツ(カシュナッツ)も食べることができる。2009年1月25日、イフェ、モダケケ地区の下宿にて

どうしようもないえぐみが、びりびりと舌にくる。
「(中国語をまねて)チンコー! チンチョン!」もうやめて。「男か? 女か?」そんなにじろじろひとの体を見んでって。「今日はなにを持ってきてくれたの?」毎回持ってこれるわけなかろうもん。「オロリブルクッ(腐った頭)! ぼーっと歩いてんじゃねぇぞっ」そっちがバイクで蠅みたいに飛び交うけんやろ。ああもう、血がでてきたやん。

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第14回 エスペランサ―希望の虫―

2010年8月22日

退院後、ジーシーと聖書を眺めるレイナ。ドミニカ共和国、バニ市にて
写真: 退院後、ジーシーと聖書を眺めるレイナ。ドミニカ共和国、バニ市にて

母の入院

2メートル近い長身で100キロを超える大男のジョニーが泣くのをはじめてみたのは、母親のレイナが肺がんに侵されているのを知ったときだった。1年くらい前から、ときおりレイナが「最近右足のつけ根に痛みが走ることがあってね」とこぼすようになっていた。それでも笑顔で話す口振りに、家族の誰もが深刻には受け止めていなかった。

山奥の村で生まれ育ち、一度はハリケーンで家を失いながらも、新しいバリオで3人の子どもを育てあげたレイナにとって、これぐらいのことは気にも留めていないようだった。しかし、次第に米を受けつけなくなり、日増しに痩せていく姿を見て、心配は確信へと変わった。今にして思えば、1年前からすでに病が彼女の身体を蝕みはじめていたのであろう。大好きだった幼稚園の給食婦の仕事を休み、毎晩のように教会に通うようになったとき、ついに夫のラファエルは金策に走り、首都の病院で検診を受けさせる決断をした。

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