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	<title>清水弘文堂 &#187; ドミニカ</title>
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	<description>環境学、民俗学の学術書を提供する清水弘文堂の公式ウェブサイトです。</description>
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		<title>第15回　2010年 ドゥアルテ通り</title>
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		<pubDate>Sun, 05 Sep 2010 00:00:10 +0000</pubDate>
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写真： ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。
植民地支配の遺産
ジョージ・ワシントン、アブラハム･リンカーン、Ｊ.Ｆ.ケネディ。これらはすべて、首都サント [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/09/transborderplayers-015-01-540.jpg" alt="ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。" title="ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。" width="540" height="405" class="alignnone size-full wp-image-4449" /><br />
写真： ドミニカ独立の父、フアン・パブロ・ドゥアルテが通りの名になっている。ニューヨーク、マンハッタンにて。</p>
<h4>植民地支配の遺産</h4>
<p>ジョージ・ワシントン、アブラハム･リンカーン、Ｊ.Ｆ.ケネディ。これらはすべて、首都サント・ドミンゴをはしる通りの名前である。なぜドミニカで歴代アメリカ大統領の名前が使われるのだろうか。</p>
<p>話は1905年までさかのぼる。アメリカがカリブ海地域を支配する拠点としてドミニカを選び、借金の形（かた）に関税権を召しあげた。これを機に資本家たちがやって来るようになり、それまでスペイン系によって独占されてきた金融業やサトウキビプランテーションを次々に買収した。サント・ドミンゴの区画整理がおこなわれ、通りの名前がつけられたのもこのころである。</p>
<p>すでにキューバ人によって伝えられていた野球が、この時期にドミニカ全土へと広まったのもこのような事情が背景にある。その時代から1世紀以上の時間が経過したが、通りの名は当時のままだ。このことは、今なおドミニカが、アメリカによる政治経済的支配下にあることを物語っている。</p>
<p><span id="more-4448"></span></p>
<h4>血肉化された歴史</h4>
<p>「パリグアージョ！」と呼ばれたその男は、険しい表情で後ろを振り返った。周囲に緊張した空気が流れる。直後、声の主が仲のいい幼馴じみであることがわかると、ほっとしたような表情を浮かべ、満面の笑みで近づくと「コーニョ!（くそ!）」と応じた。直訳すれば、「情けない野郎」くらいの意味になるのだが、それにしては男の反応が激しすぎるように思えた。何かあるのではないか？</p>
<p>この出来事の後、できるだけ年配の人を捕まえては、手当たり次第に言葉の意味を訪ね歩いた。その結果、この言葉の誕生には、どうやらアメリカによる軍事統治が深く関係しているらしいことがわかってきた。すでにその時代を知る人の多くが鬼籍にはいっており、話を聞くことはできなかったが、子の世代にあたる人が、「父親から聞いた話だけど」と断ってから滔々（とうとう）と語ってくれた。</p>
<p>「あの占領時代、アメリカ人はパーティをこの国に持ちこんだ。首都ではそれこそ毎晩のようにどこかでパーティがあったというんだから、そのときから政治家はいい思いをしてたんだろう。それはまあいいとして、うちの親父があるときそんなパーティのひとつに呼ばれたらしい。なぜかって？　ほら、うちの親父は警察官だったから、そういうのもあったんじゃないかな。警備とかそういう名目で。そのパーティでのことは、もう何回聞かされたかわからない。酔っ払うと、最後には決まってその話をお袋や近所の人に話してたから。それはこういう話でね。</p>
<p>親父が言うにはだよ。そのパーティには、ドミニカ人の若い娘がたくさん呼ばれるの。どこの国の人間だって男はみんなスケベってこと。お前もそうだろ？　まあいい。娘たちも憧れのアメリカ人と出会えるチャンスだから悪い気はしないさ。つまりそのパーティの主人公はアメ公とドミニカ人の娘なんだよ。それをうちの親父みたいな警備担当や給仕係の男たちが見守っているわけ。これってすごいことだと思わない？　お前さんも知ってのとおり、ドミニカの男がきれいな女が目の前でアメ公と踊るのを指をくわえて見守っているんだから。何もできずにね。</p>
<p>お前さん、パリグアージョって言葉知ってるだろ？　そう、喧嘩のときにしか使わないアノ言葉さ。あれってもとを正せば、ここからきてるんだ。アメリカ人たちがパーティを見物しているドミニカ人にたいして“パーティ・ウォッチャー”って呼んだのが、スペイン語に訛ってパリグアージョになったのが始まりなんだ。だから、今でもこの言葉が禁句になっているのさ。お前さん、冗談でもよっぽど仲のいい相手にしか使っちゃダメだよ。よく覚えておきな」</p>
<p>なにげない話し言葉にまで植民地支配の影が色濃く残っていることに愕然とした。この話を聞いてようやくあのときの謎が解けた。「パリグアージョ」と呼ばれた男の険しい表情と周囲に走った緊張を私は知った。男の内部に無意識のうちに血肉化されていた歴史が、普段は休火山の底のマグマようにおとなしく眠っているのだけれど、あの一言をきっかけに瞬時に融解し、閃光となって一気に頭の先から爪先までを駆けめぐったのだ。<br />
幸いにも、この言葉が本気で使われている場面に私はまだ遭遇したことがない。</p>
<h4>パリグアージョの怨念</h4>
<p>日本からドミニカに向かう際には、いつもニューヨークを経由する。マンハッタンにあるドミニカ人街、ワシントンハイツに立ち寄るためである。空港近くのホテルに泊まってもいいのだが、それよりも移民街でウォーミングアップをしてからのほうが、ドミニカへの順応がスムーズにいくというのがその理由だ。何度目かの訪問の折に、交差点に立てられている標識が眼にとまった。「W 170 ST」「ST NICHOLAS AVENUE」というなんでもない標識の上に、「JUAN PABLO DUARTE」と、もうひとつ標識がかかっている。ドミニカ独立の父、フアン･パブロ･ドゥアルテの名前が通りにつけられていたのだった。この標識が設置されたのは、ドミニカ移民が住民の過半数を超え、市会議員を輩出するなど政治的発言力を強めた結果である。</p>
<p>こうした光景に出くわすたびに、アメリカという国のおおらかさに感じ入ってしまう。ヨーロッパや日本にはない遊び心とでもいえようか。蒸留酒より混合酒に酔うのである。しかし、通りの名前というのが私には引っかかった。あまりにもできすぎた話じゃないですか、と。100年前にはアメリカが、そして今、ドミニカからの移民たちが、である。これを移民たちの権利獲得運動の結果とみるか、ドミニカ側からの意趣返しとみるか。いずれにしてもその文字からは、パリグアージョたちの怨念が漂ってくるのである。</p>
<p>（隔週日曜更新）</p>
<hr />
<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
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		<title>第14回　エスペランサ―希望の虫―</title>
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		<pubDate>Sun, 22 Aug 2010 00:00:47 +0000</pubDate>
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写真： 退院後、ジーシーと聖書を眺めるレイナ。ドミニカ共和国、バニ市にて
母の入院
2メートル近い長身で100キロを超える大男のジョニーが泣くのをはじめてみたのは、母親のレイナが肺がんに侵されているのを知ったときだった [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/08/transborderplayers-014-01-540.jpg" alt="退院後、ジーシーと聖書を眺めるレイナ。ドミニカ共和国、バニ市にて" title="退院後、ジーシーと聖書を眺めるレイナ。ドミニカ共和国、バニ市にて" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-4362" /><br />
写真： 退院後、ジーシーと聖書を眺めるレイナ。ドミニカ共和国、バニ市にて</p>
<h4>母の入院</h4>
<p>2メートル近い長身で100キロを超える大男のジョニーが泣くのをはじめてみたのは、母親のレイナが肺がんに侵されているのを知ったときだった。1年くらい前から、ときおりレイナが「最近右足のつけ根に痛みが走ることがあってね」とこぼすようになっていた。それでも笑顔で話す口振りに、家族の誰もが深刻には受け止めていなかった。</p>
<p>山奥の村で生まれ育ち、一度はハリケーンで家を失いながらも、新しいバリオで3人の子どもを育てあげたレイナにとって、これぐらいのことは気にも留めていないようだった。しかし、次第に米を受けつけなくなり、日増しに痩せていく姿を見て、心配は確信へと変わった。今にして思えば、1年前からすでに病が彼女の身体を蝕みはじめていたのであろう。大好きだった幼稚園の給食婦の仕事を休み、毎晩のように教会に通うようになったとき、ついに夫のラファエルは金策に走り、首都の病院で検診を受けさせる決断をした。</p>
<p><span id="more-4361"></span></p>
<h4>母のいない食卓</h4>
<p>その日、私はジョニーと一緒に家で留守番をすることになっていた。レイナが入院してから、2人の孫はそれぞれ、同じバリオにあるもうひとりの祖母の家に預けられた。子どもの相手をする必要もなく、これといってすることのない私たちは、バリオの誰かの噂話などたわいもない話をしながら、時間を過ごしていた。</p>
<p>いつもならレイナの妹であるメルセデスが食事を届けてくれる昼ごろになっても、誰もやってこない。それもそのはずで、彼女はレイナの身の回りの世話をするために、昨日から病院でつき添っているのだった。ジョニーが、「なにを食べたい？」と聞いてきた。彼は母親が料理をつくるのをそばで見ながら育ったので、ひととおりの家庭料理ならつくることができるのだ。それでは、ということで私は一般的なドミニカ料理である、ロ・クリオと呼ばれる炊きこみご飯をリクエストした。近所のコルマドに材料を買いにいくのは私の仕事だ。道中、向かいの家に住むジーシーからレイナの容態をたずねられるも、検査中としか答えられない。ジーシーが男だけしか家にいないことを案じて、「あなたたちの分もつくるから」と言ってくれる。ジョニーがつくることを伝えると興味をそそられたのか、家までやってきて、ジョニーに材料はこれを使えだの、やれサソン（自家製の調味料）はあるのか、などとお節介を焼きはじめる。結局、ジーシーの家族の分までジョニーがつくることになった。</p>
<h4>大粒の涙</h4>
<p>なんとか料理が完成し、ジーシーの息子も加わり昼食がはじまった。料理が予想以上においしいことに驚きながら、「夜も俺がつくるから」となんとも楽しげな表情を浮かべるジョニーを微笑ましく眺めていた。そんな穏やかな空気を一変させたのは、父親のラファエルからの電話。短いやりとりの後、受話器を置いて腰掛けたジョニーは、私たちに向かって「ママは肺がんだった」とつぶやくと、大粒の涙をこぼしたのだった。</p>
<p>あまりに唐突すぎる報せにジーシーと私は戸惑ってしまい、涙にむせぶジョニーをなぐさめることもできない。まだ幼いジーシーの息子は、起きていることの意味もわからずに、ただスプーンでご飯をいじっている。そのたびに窓から差しこむ光が反射して壁にスプーンの形を浮かびあがらせた。食器を片づけ、残ったご飯をプラスティックの容器に移しかえるとほかにすることもなくなってしまった。いたたまれなくなった私はパティオに出て、いつもと変わらない空の色を眺めながら煙草をたてつづけに2本吸った。<br />
遠くからジョニーの嗚咽だけがいつまでも聞こえていた……。</p>
<h4>それぞれの思い</h4>
<p>翌朝、パティオには聖書に目を落とすラファエルの姿があった。私がこの家に暮らすようになってはじめてではないだろうか。昨夜、夜遅くに帰ってくると、「入院費が高すぎるからいつまでも入院させることができない」とこぼしていた。やりきれない思いが祈りにむかわせたのか。そんなことを考えていた私を混乱させたのは、夕方近くに野球のユニフォームに着替える彼の姿だった。「ソフトボールのリーグ戦が今日からはじまるから」となんのてらいもなく言うのである。私は耳を疑った。こんな日にも野球をしようとする気持ちがわからない。しかし、「こんなときによく野球なんかできるな」という言葉をなんとか押しとどめたのは、今朝の光景が頭に残っていたからだった。</p>
<p>窓から西日が差しこむころになって、ようやく部屋にこもっていたジョニーが顔をみせた。私を椅子に座らせると、開口一番「俺、ニューヨークに行くわ」と告げた。どんな仕事も長続きのしない彼の言葉に、即座には真意を測りかねた。近所の誰かがアメリカに渡った話にもさして興味を示さなかった男が、である。曰く、父親が漏らした入院費のことをあれからずっと考えていたとのこと。そう話す表情からは、揺るがぬ覚悟が伝わってきた。</p>
<p>3日後、マジンバ（豪放な性格の人）として近所ではとおっているメルセデスが、すっかりやつれて帰ってきた。聞けば病院のまわりの食堂はおいしくないうえに、日頃食べているのと同じような料理にお金を払ってまで食べる気もしないから、病院の前の屋台でエンパナーダを買って済ますことが多かったとのこと。でも本当は、大好きな姉のはじめての大病をまえに、食欲などわかなかったのだとおもうと胸が熱くなった。</p>
<h4>希望の虫</h4>
<p>その日は、レイナの病状が安定したこと、子どもたちがこちらの家に帰ってきたこともあって、ひさしぶりに、にぎやかな話し声が午後の日差しのなかに溢れていた。子どもたちが鶏小屋の壁をはう一匹のカマキリを見つけた。こちらではあまり見かけない虫である。と、その瞬間、メルセデスが「捕ったらダメ！」と強い口調で子どもたちを制したのだ。腑に落ちない表情の子どもたちと私に、「この虫はエスペランサと呼ぶのよ」と教えてくれた。日本語で「希望」。</p>
<p>思わぬ注目を集めることになったそのカマキリは、同じ場所に留まったまま、首をもたげ一点を凝視していた。強くつかめばすぐにでも息絶えてしまうほどの小さな虫が、私の眼の前でマキシモ・ゴメスの風格を漂わせ、堂々たる姿で君臨している。そこには怯えや迷いなど微塵もなく、確実に一歩を踏み出そうとする決意をこめて。 希望の虫がゆっくりと動きはじめた。壁の高みに向けてどこまでも、どこまでも･･････。</p>
<p>（隔週日曜更新）</p>
<hr />
<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
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		<title>第13回　ドミニカンヨルクたちの週末</title>
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		<pubDate>Sun, 08 Aug 2010 00:00:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
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写真：週末の夜を楽しむドミニカンヨルクたち。アメリカ合衆国、ペンシルバニア
ドミニカ通り
アメリカ合衆国ペンシルバニア州の小さな町の片隅に、ドミニカ通りと呼ばれる一角がある。「サボール・キスケーヤ」「スーペルメルカド・ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/08/transborderplayers-013-01-540.jpg" alt="週末の夜を楽しむドミニカンヨルクたち。アメリカ合衆国、ペンシルバニア" title="週末の夜を楽しむドミニカンヨルクたち。アメリカ合衆国、ペンシルバニア" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-4324" /><br />
写真：週末の夜を楽しむドミニカンヨルクたち。アメリカ合衆国、ペンシルバニア</p>
<h4>ドミニカ通り</h4>
<p>アメリカ合衆国ペンシルバニア州の小さな町の片隅に、ドミニカ通りと呼ばれる一角がある。「サボール・キスケーヤ」「スーペルメルカド・ドミニカーノ」といったドミニカにちなんだ看板を見ないでこの界隈をやり過ごすことはできない。人口1万5000人あまりの町に3000人ものドミニカ人が暮らしていると言われてもいまいちピンとこないけれど、この通りを歩いてみると、なるほど、たくさんのドミニカ人がこの町に暮らしているのだと実感できる。ドミニカ料理店からはあのコリアンダー独特のかおり、隣の店をのぞけば、ドミニカの家族に送金をする人たちの列、道路をはさんだ向かいにはドミニカ料理の食材を取り揃えたスーパーがあり、本国へのノスタルジーをかきたてられる。無機質なアメリカの町並みも、ラテンのアクセントが少し加わるだけで、いきいきとした表情を取り戻す。</p>
<p>この町にふたつしかないドミニカ系ディスコのひとつがこの通りにある。「カンティーナ（酒場）」という名のその店は、ドミニカ人の習慣にあわせて、木曜日から日曜日の夜だけ開店する。カウンターで客の注文をうける女性がドミニカ系なら、やってくる客もこの町に暮らすドミニカンである。土曜日の深夜0時。客で埋めつくされた店内には香水のにおいと人いきれが充満する。ドミニカ音楽の最新のヒットチャートが流れ、雰囲気がさらにヒートアップ。2時半の閉店まで、さあこれからが本番といわんばかりだ。</p>
<p><span id="more-4312"></span></p>
<h4>理想と現実</h4>
<p>ドミニカではアメリカに暮らす同郷人を指して、ドミニカンヨルクと呼んでいる。ニューヨークのスペイン語読みであるヌエバヨルクとドミニカンの合成語であるが、この言葉には人びとの移民に対する憧憬の念がこめられているようだ。稼いだドルを家族に送金することはもちろん、両手で抱えきれないほどのお土産を故郷のバリオに持ち帰り、毎日のように散財のかぎりを尽くしてはアメリカへと旅立っていくドミニカンヨルクたち。そんな姿を目の当たりにした故郷の人たちが、アメリカでもこのような暮らしを送っているのだろうとおもうのも無理はない。だが、現実は厳しい。ほとんどの移民は、工場の安い時給で働き、故郷への送金も月に100ドルが精一杯。その100ドルにしても日々の生活費を切り詰めてやっとひねり出しているのである。それでもドルとドミニカペソの為替レートと物価の格差が、100ドルをそれ以上の価値へと高めてしまうために、両者のあいだに齟齬がうまれてしまうのだ。現状を説明して理解してもらえばいいとおもうのだが、そうはいかないところが人間の性（さが）。故郷の人が抱くドミニカンヨルク像に移民たちも乗っかって、そのイメージを裏切らないように行動する。友人に対してならまだしも、家族にも同じようにふるまうのだから徹底している。</p>
<p>ある日の夕食時、アメリカに来て5年目をむかえるフェリンがめずらしく愚痴をこぼした。「（故郷の）バリオの連中はこっちの生活のことなんて、なにひとつわかってない。もっと送金できるとおもってるんだ。こないだなんかも、やれ携帯電話を送れ、スニーカーを送れだの……」ズボンのほころびを指でいじりながらまくし立てる。「家賃、電気代、車のガソリン代に毎日の食費。残ったお金でやっと送金してるのに……」それじゃ、どうしてそのことを正直に言わないの？　意地悪とはおもったが、たずねてみた。「それは……」と口ごもるフェリン。「夢を……そう、本当のことなんて誰も知りたくないからね」</p>
<h4>夢なら覚めないで</h4>
<p>深夜2時。酔っ払いはじめた客の嬌声で店内が一層騒がしくなり、雰囲気があやしくなる。フロアには、派遣労働者として工場での単純作業に従事するもの、毎夜ドラッグの売人として危ない橋をわたっているもの、アメリカ生まれの子どもとの意思の疎通に戸惑う母親たち。日頃のストレスをみんながいっせいに解き放っている。そんな踊りの集団のなかに、義理の妹と楽しそうに踊るフェリンの姿をみつけた。かっこよく決めた服は、郊外のショッピングモールで買った10ドルのセール品。アメリカ育ちの妻は、週末は料理をつくってくれないので、朝から口にしたのは冷凍食品のピザだけ。耳元でなにかをささやいては、はじけるような笑顔をみせ、踊りふける。</p>
<p>私は知っている。ドミニカンヨルクなどという実態はどこにも存在しないということを。ドミニカンヨルクとは、人びとの心のなかに存在する偶像のようなもの。グローバル化の時代に登場したあらたな聖人像とでもいえようか。それにしても、この聖人たち、少しばかり羽目をはずしすぎる。2時半の閉店を迎えても宴は終わる気配がない。誰かが「俺の家の地下室でビリヤードをしながら飲みなおそうや」と誘い舟をだすと、そのまま全員でなだれこむ。ラム酒のコーラ割りにウィスキー、普段から「水みたいで味がない」と酷評するアメリカの缶ビールが次から次へと空けられていく。とてもじゃないけど彼らの体力につきあいきれない私は、地下室のソファでいつのまにか眠ってしまったようだ。夢見心地の頭に聞こえてくるのは、今度はいつ故郷に帰るつもりだ、来年には弟をこっちに呼び寄せようと思っている、故郷に豪邸を建ててやるといった夢物語の数々。夢ならどうか覚めないで……。との願いは私だけのものではなく、ここに集まった者たちすべてのものだったであろう。どのくらい眠っていただろうか。目覚めると、すでに聖人たちの姿はなく、空き瓶と吸殻だけがテーブルの上に残されていた。</p>
<p>（隔週日曜更新）</p>
<hr />
<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
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		<title>第12回　気まぐれな同居人</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 00:00:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
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写真： 各家に向かって延びる電線。ドミニカ共和国バニ市にて。
すっといなくなる同居人
「セ・フエ・ラ・ルー（電気がいっちゃった）!!」この声を聞くと、私は使っていたパソコンの電源を落として、パティオ（裏庭）に出る。一日 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/07/transborderplayers-12-01-540.jpg" alt="各家に向かって延びる電線。ドミニカ共和国バニ市にて。" title="各家に向かって延びる電線。ドミニカ共和国バニ市にて。" width="405" height="540" class="aligncenter size-full wp-image-4224" /><br />
写真： 各家に向かって延びる電線。ドミニカ共和国バニ市にて。</p>
<h4>すっといなくなる同居人</h4>
<p>「セ・フエ・ラ・ルー（電気がいっちゃった）!!」この声を聞くと、私は使っていたパソコンの電源を落として、パティオ（裏庭）に出る。一日に3回はやってくる停電の瞬間。ドミニカにも停電を表すスペイン語の単語はあるのに、電気に人格を持たせて「いっちゃった」と表現する言い方を私は気に入っている。</p>
<p>夜遅くには帰ってきて、明け方に出ていくことが多いから同居人のようなものだ。しかし、この同居人は気まぐれだ。昼の3時ごろにやってきて、夕方6時を回ったころにはふたたび出かけていく。そうかと思うと、別の日には昼前に1時間ほど顔を見せて、すっといなくなる。ドミニカ人男性の生活スタイルに似ているから、いっそのこと電気というスペイン語を女性名詞から男性名詞に変えればいいのにと思ってしまうほどだ <sup><a href="/transborder-players/12-living-with-a-capricious-man/#footnote-01" name="footnote-id-01">[1]</a></sup> 。</p>
<p><span id="more-4223"></span></p>
<h4>停電と盗電</h4>
<p>停電が起こるのはこの国の慢性的な電力不足が原因である。これは決して貧しいバリオに限った話ではなく、ドミニカ全体が抱える深刻な悩みとなっている。ホテルや商業ビルの建設、さらには地下鉄の開通などにより電力消費量は大幅に増加しているのに発電量が追いつかず、停電の頻度は年を追うごとにたかまる一方だ。首都の高級住宅街では停電に備え、電気会社にお金を払いながらも自家発電で電気を確保しなければならない。24時間365日、電気のある生活を送るにはかなりの出費を覚悟しなければならないのだ。</p>
<p>電気代を払っていないバリオにも深夜になると電気はやってくる。いわゆる政治的配慮のおかげだ。それにしてもわからないのは、隣のバリオも同じく電気代を払っていないはずなのに、一日中灯りが絶えないこと。答えは意外なところにあった。そのバリオにあるコーヒー工場で働く男性と話す機会があって、「電気がないと作業ができないから、電力会社も電気を止めない。そこに目をつけたバリオの誰かが、この工場へ繋がる送電線から電気を盗むことを思いついたんだ」と得意げに教えてくれた。</p>
<p>こちらのバリオも事情は同じだ。新しい家が建てられるごとに既設の電線から新しい線を引っ張りこむので、今では蛸足ならぬムカデ足のような電線が各家に向かって延びている。強風にあおられ、マンゴーの枝が電線に引っかかると、火花が散り、あたり一面に焦げ臭いにおいが充満する。そんなときは、バリオにひとりしかいない電気修理屋のナンが呼ばれる。絶縁手袋もはめずに、くわえ煙草で手際よく復旧工事を終えると、手間賃に100ペソ紙幣を数枚もらって帰っていく。電気を引くのも彼なら、修繕するのも彼の仕事。若いときは札付きの悪党だったナンも、今やバリオのみんなに頼られる存在になっている。</p>
<h4>家電製品を使う</h4>
<p>いつ停電になるか予測がつかないから洗濯のタイミングが難しい。洗濯機を使いはじめるのは電気が到着した直後と決めているが、一日に2回は水浴びをして服を着替えるきれい好きなドミニカ人のこと、洗濯物の量が半端ではないから大変だ。そこに洗濯機を持っていない近所の人がこれまた大量の洗濯物を抱えてやってくるので、その日の午後は洗濯機が悲鳴をあげながらフル稼働する。全部洗い終えるのに4時間はかかる計算で、私などは「後もうちょっとやからいかんといて」と祈らずにはいられない。それでも気まぐれな同居人はそんな私を尻目にまたふらっと出ていくのである。</p>
<p>冷蔵庫にしても事情は同じだから、ナマモノは保存できない。首都の大型スーパーでは、食料品をカートに山積みにした買物客をよく見かけるが、このバリオがある地方都市には生鮮食品を扱うスーパーがない。いや、正確には必要がない。その日に食べるものは、その日に食べる量だけを毎朝市場まで買いに出かける。市場には屠殺（とさつ）したての家畜の肉や近隣の畑から運ばれてきた野菜が所狭しと並べてあり、おかげで新鮮な食材を口にすることができるのだ。でもそれは停電が理由だと知ってしまうと素直には喜べないのだが……。</p>
<p>それでは冷蔵庫にはなにが入っているのだろう。水が入ったステンレス製のコップが数個、日持ちのするサラミ、ドミニカの家庭料理に欠かせない自家製調味料くらい。「それでもないよりはマシでしょ」とはこの家の母親の弁である。こうなると食料の保存という本来の目的はどこかに消えて、隣近所に対する見栄のために置かれているといったほうが正しいように思う。</p>
<h4>帰ってきた同居人</h4>
<p>夜遅くにようやくやつが帰ってきた。家の外に椅子を持ち出して涼んでいた大人たちや、道端で遊んでいた子どもたちのあいだから「ジェゴ・ラ・ルー（電気が着いた）!!」と歓声があがった。暗闇の世界から一転、まばゆいばかりの光の世界が立ち現れる。洗濯機がゆっくりとまわりはじめる音がする。一呼吸おいて、冷蔵庫のうなり声があとに続く。そこにテレビとラジオの音が重なり、家電の四重奏がはじまった。夜ごとくりひろげられるスペクタクルに倦（う）むことがないのは、伝統から近代へのタイムスリップが、人びとに刹那的な快楽をもたらすから。その刹那のなかで私は幻を見たのだろうか。アメリカに行ったきりでしばらく顔を見せなかったこの家の息子が台所で笑っている。そんな幻想を抱かせるくらいに、その瞬間はほんとうに突然やってきた。</p>
<p><a name="footnote-01">注1</a>： スペイン語の名詞には、男性と女性の性別がある。 [ <a href="#footnote-id-01">↑</a> ]</p>
<p>（隔週日曜更新）</p>
<hr />
<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
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		<title>第11回　カクーの生涯</title>
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		<pubDate>Sun, 11 Jul 2010 00:00:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
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写真： ここがカクーの定位置だった。ドミニカ共和国バニにて
アポード（あだ名）
ドミニカで知り合いと出会った際にかわす挨拶は少し変わっている。日本だと「こんにちは」あるいは、「ご無沙汰しています」といったところだろうが [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/07/transborderplayers-11-01-540.jpg" alt="ここがカクーの定位置だった。ドミニカ共和国バニにて" title="ここがカクーの定位置だった。ドミニカ共和国バニにて" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-4153" /><br />
写真： ここがカクーの定位置だった。ドミニカ共和国バニにて</p>
<h4>アポード（あだ名）</h4>
<p>ドミニカで知り合いと出会った際にかわす挨拶は少し変わっている。日本だと「こんにちは」あるいは、「ご無沙汰しています」といったところだろうが、ドミニカではまず相手の名前を呼ぶのである。例えば、「ベヘ！」「マランガ！」といったような挨拶がかわされる。ベヘは「年寄り」という意味のドミニカン・スパニッシュ。マランガは「太っちょ」くらいの意味のあだ名である。ではどのようにあだ名をつけるのかというと、やはり身体的特徴から名づけられることが多い。聞くところによると、子どものころに名づけられたのが、そのまま現在にまで至っているというのがほとんどだ。</p>
<p>「カクー」というのは、ヘルメットを表す「カコ」というスペイン語からきている。ようするに「ヘルメットみたいに大きな頭をしているやつ」という意味である。日本で言うところの「福助」だ。こんなあだ名をつけられると、気持ちのいいはずはないと思ってしまうのは、繊細すぎる日本人の感覚で、ドミニカではむしろあだ名をつけられないことのほうが悲しい。</p>
<p>ドミニカには、日本のタロウやヒロシのように無数のホセやペドロが存在する。そのため、噂話をするときに「ホセがねぇ」といっても、まず「どのホセが」というところから説明しないといけないほどだ。ところが、ひとたびあだ名で呼ぶことで、そのほかのホセとは区別され特別な存在になる。また、あだ名をつけられる人は、良くも悪くも人びとのあいだで話題にのぼる頻度が高い。カクーもそのような人たちのひとりであった。</p>
<p><span id="more-4150"></span></p>
<h4>福助の生い立ち</h4>
<p>カクーは典型的なドミニカの大家族の6男として生をうけた。そして、今年の1月に28年間の短い人生に幕を降ろした。まともな職業に就くこともなく、フリトゥーラの後片付けを手伝うかわりに、その日の食べ物にありついたり、鶏を絞めて市場に売りにいく幼馴なじみのトラックの助手席に座っていたりと物乞いのような生き方をしていた。そんな苦労人だからか、私の拙いスペイン語に辛抱強くつきあってくれたのも、バリオの複雑な人間関係を私が理解するまでレクチャーしてくれたのも彼であった。</p>
<p>華奢の大食いであった。よくもこの細い身体でこんなにも食べられるものだと、感心したものである。あるとき、食べても太らないのはマリファナを常用していたせいだと知ったときは、「こいつも苦しんでいるのだ」と心が痛んだことを覚えている。バリオの連中はカクーの置かれている状況をよく知っていたので、彼が定職にも就かずにふらふらしていることを咎めるものはいなかった。ドミニカの大家族のなかで6男に生まれることの意味をこのバリオの人たちは充分すぎるほど知っていたのだ。</p>
<p>父親はバニと首都サント・ドミンゴを結ぶバスの運転手で、カクーの弟が車掌として一緒に働いている。日雇いの建設現場で働く男たちが多いこのバリオにあって、安定した収入があるとはいえ、それは8人の子どもを養えることと同義ではない。成人した子どもは地を這ってでも生きていかねばならないのだ。</p>
<h4>死者に寄り添い、送る</h4>
<p>ドミニカでは人が亡くなると、11日間喪に服す習慣がある。日本の通夜のように、亡くなった当日は親族が徹夜をして、死者があちら岸にたどりつくまで、寂しくないように見送るのだ。家の前にテントを張り巡らせて椅子を並べ、ドミノをしたり、酒を飲みながらにぎやかに夜を明かす。あくる日はお墓に埋葬するのだが、近所の暇をもてあましている男たちが、スーパーカブを暴走族のように連ね、そのエンジン音をあたかも葬送行進曲であるかのようにして死者に寄り添うのである。</p>
<p>死者がまだ若い場合は、バリオの人たちは一様に悲観にくれる。なにか得体の知れないものによってあの世に召されてしまったと考えるからだ。それを証拠に、殺人や事故で亡くなったもの、そしてカクーのように20代で亡くなったものの葬式では、その家につづく通りの両端にロウソクを等間隔に並べて、万燈篭のような幻想的な雰囲気につつまれる。このようにしてカクーの魂も無事にあの世に送られ、11日間続いた葬式が終わるとバリオはなにもなかったように、またいつもの日常へと戻っていった。</p>
<h4>残された帽子</h4>
<p>私の手もとにボストン・レッドソックスの帽子がある。所々に白いペンキがこびりついた年季のはいった帽子である。去年の9月、ドミニカを発つ前日にバリオの仲間が開いてくれた送別会での出来事だった。夕方から飲みはじめた酒も尽きはじめ、そろそろお開きというころ、朝から顔をみかけなかったカクーがふらりと現れた。ジーパンのポケットに突っこんであった帽子を私の手に握らせ、「これ日本に持って帰れよ」とだけ言うと、通りかかった知り合いのバイクに飛び乗り、暗闇の向こう側へと消えていった。</p>
<p>その数日前。ドミニカにレッドソックスのファンが多いのは、ドミニカからの移民がボストンに数多く暮らしていることと関係がありそうだという話をみんなでしているときに、私が研究資料としてレッドソックスの帽子を持って帰りたいと言ったのを覚えていてくれたのだ。</p>
<p>帽子をかぶってみる。力をこめないと奥まですっぽりと入らない。「あいつの頭、俺より小さかったんか」と気づいたとき、いつも肩を怒らせながら歩く、痩せたカクーの姿が目に浮かんで泣けてきた。</p>
<p>カクーというあだ名を耳にするたび、私は彼のことばや人生をすぐに思い浮かべることができる。それは私にとって「カクー」が特別な存在であるからだ。私は彼の本当の名前を知ろうとは思わない。</p>
<p>（隔週日曜更新）</p>
<hr />
<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
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		<title>第10回　イミグレーションと「運び屋」</title>
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		<pubDate>Sun, 27 Jun 2010 00:00:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
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		<description><![CDATA[
写真：アメリカに滞在する娘にお土産用の「雄牛の頭の煮込み」を料理する母。ドミニカ共和国、バニ。
憂鬱な入国審査
「ドミニカへはなにをしにいくのか？」これまでに何度同じ質問をされただろう。
ドミニカへの行き帰りに米国移民 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/06/transborderplayers-10-01-540.jpg" alt="アメリカに滞在する娘にお土産用の「雄牛の頭の煮込み」を料理する母。ドミニカ共和国、バニ。" title="アメリカに滞在する娘にお土産用の「雄牛の頭の煮込み」を料理する母。ドミニカ共和国、バニ。" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-4056" /><br />
写真：アメリカに滞在する娘にお土産用の「雄牛の頭の煮込み」を料理する母。ドミニカ共和国、バニ。</p>
<h4>憂鬱な入国審査</h4>
<p>「ドミニカへはなにをしにいくのか？」これまでに何度同じ質問をされただろう。<br />
ドミニカへの行き帰りに米国移民管理局による入国審査を受けるのだが、この時間が憂鬱でならない。イミグレーションの係官は私のパスポートに目を通すなり、一応に警戒の表情を浮かべる。</p>
<p>ドミニカへの出入国を示すスタンプが多いことがその理由らしいが、こちらとしてはなぜアメリカの入国管理官にドミニカ行きの理由を忖度されなければならないのか納得がいかない。コンピューターには私の個人情報が入力されているのだから、過去の質疑応答も記録しておけばいいではないかと毒づきたくなる。</p>
<p>「アメリカに滞在中は誰を訪ねるのか？」などと執拗に尋ねてくる係官にうんざりしながら、以前にアメリカで暮らすドミニカ移民の女性が語ってくれたエピソードを思い出していた。</p>
<h4>パンツを脱がせればいい</h4>
<p>現在、市民権を取得してアメリカのパスポートを持つマルレニィは、年に何度か残してきた子どもたちに会いに、ドミニカへと出かけていく。そんな彼女も空港の税関では毎回喧嘩になるという。なんでもアメリカの空港では、中南米からの女性ひとり旅は、麻薬の運び屋として疑われるのだそうだ。コカインやヘロインを詰めたビニール袋を飲みこんで、空港で待つマフィアに届けるコロンビア人の運び屋女性をテーマにした映画が、何年か前に日本でも公開されたが、マルレニィからすればその手の疑惑はいい迷惑でしかない<sup><a href="#footnote-01" name="footnote-id-01">[1]</a></sup>。</p>
<p>「どこのホテルに泊まるのか？」「誰が迎えにきているの？」挙句の果てには、「あなたのようなタイプの女性には、お腹にドラッグを入れてきて、ホテルに着いてから取り出す運び屋が多いからね」とはっきり言われたらしい。さすがに頭にきた彼女は、「そんなに疑うなら、ここでパンツを脱がせて覗いてみたらいいじゃない！」と英語で啖呵を切ったというからカッコいい。それにしても、あからさまな侮蔑を隠しもせずに先入観と偏見をもとにこんな質問を平気でする税関職員がいるということに驚いてしまう。</p>
<p><span id="more-4043"></span></p>
<h4>いざ、特別室へ</h4>
<p>とうとう入国管理局の特別室に案内されることになった。去年の9月、ドミニカから降り立ったニューアーク空港での出来事である。これまでの係官の態度から、いずれはご招待を受けるだろうと覚悟はしていたものの、いざ連れていかれるとなると、それなりに緊張するものだ。その時の係官の応対はなんとも「アメリカ人的」であった<sup><a href="#footnote-02" name="footnote-id-02">[2]</a></sup>。</p>
<p>以下、係官との一問一答。</p>
<p>係官「ドミニカでの滞在目的は？」<br />
私　「文化人類学のフィールドワークだ」<br />
係官「なぜ、毎年こんなに長期に滞在するのか？」<br />
私　「それがフィールドワークだからだ」<br />
係官「I don’t understand」<br />
私　「大学で人類学の講義を受けなかったの？」</p>
<p>……しばらく押し問答が続いた後、手もとのパソコンをログアウトした係官がブースを出て、特別室へと繋がる扉に歩を進める。私はきれいに刈りあげられた金髪頭をにらみつけながらその後に続いた。</p>
<h4>文化の「翻訳」</h4>
<p>特別室はIDカードがないと扉が開かない仕組みになっている。自由を奪われた気分だ。駅の待合室にあるような三人掛けのソファーが5列ほど並んでいて、そこでは中国系の中年夫婦と腕にタトゥーを彫りこんだメキシコ系らしき若者、そして黒人の老女といった人たちが名前を呼ばれるのを待っていた。</p>
<p>私の順番になり、飛行機に預けた荷物を命じられるままに取りにいく。税関はドミニカへの渡航歴が多い私を麻薬の「運び屋」ではないかと疑っているのだ。私の荷物は大きなボストンバックとキャリーバックの2つ。キャリーバックには、フィールドノートや資料、衣類などの私物。ボストンバックには、ドミニカの家族から預かった、アメリカで暮らす子どもたちへのお土産が入っている。そういう意味では、私もれっきとした「運び屋」に違いない。</p>
<p>目の前には、それだけで人を威圧することのできる、長身で筋骨たくましい体格をした白人の職員が立ちはだかる。早速、ボストンバックのファスナーを開けにかかった。ブルーガル（ラム酒）の大瓶が3本、ココナッツで作った自家製のペースト状のお菓子が6個、産まれたばかりの孫のためにと、これまた自家製の滋養たっぷりのスープ。いずれも中身がこぼれないように、アルミホイルで厳重に包装され、宛名として子どもたちの名前が書かれている。税関職員の眼光いよいよ鋭くなり、ビニールの手袋をはめて、ぞんざいな手つきで次々とアルミホイルを破っていく。</p>
<p>「これは？」ココナッツでつくったお菓子を手でもてあそんでいる。「ドミニカン・スイート」と答えるが、らちがあかない。それ以上の説明をする義理もこちらにはないので、「ドミニカではみんな食べるけど、知らないの？」と聞いてみた。その質問には答えずに、受話器を取り上げると、何やら短く用件を伝えている。やってきたのはドミニカ系の職員だった。テーブル上に散らかったものに目をやり、口元に笑みを浮かべた彼を見て、これで無罪放免だと確信した。彼がひとつひとつの品について、「ノープロブレム」とはっきりとした口調で伝えながら、次々と文化を「翻訳」してくれる。おかげで、ようやく私は解放されることとなった。</p>
<h4>残滓</h4>
<p>無残に剥ぎ取られて、くしゃくしゃになったアルミホイルの残骸を見ていると、私にお土産を託したドミニカの家族たちが踏みにじられたような気分になってきた。腹の底から激しい怒りがこみ上げてくる。「元通り綺麗に包みなおせよ」と低い声でつぶやくと、即座にドミニカ系の職員が「やめとけ」とスペイン語で割ってはいる。その目は、「そんなことじゃないんだ」と訴えかけているようにも見えた。荷物を詰めこむのを手伝ってくれながら、「このお菓子、小さい頃に母親がよく作ってくれたんよ」と懐かしそうにつぶやく。</p>
<p>そうか、本当は彼のほうがずっと悲しいのだ。目の前で白人の同僚から、自分のルーツである食べ物をぞんざいに扱われたのだから。おそらく彼は日常的に繰り返されるこの種の不条理に耐えながら、ドミニカから届けられるお土産を守ってきたのだ。私よりもまだかなり若そうな彼のさりげない優しさが、入国審査にまつわる一連のできごとを忘れさせてくれた。白人の職員はというと、つまらなそうな顔をこちらに向けて「さっさと出ていけ」と言わんばかりに顎で出口のほうを指し示した。</p>
<p><a name="footnote-01">注1</a>： 『そして、ひと粒のひかり』。ジョシュア・マーストン監督、2004年に制作されたアメリカ・コロンビアの合作映画。書籍に、ジョシュア・マーストン著、高橋美夕紀訳の『そして、ひと粒のひかり』（英知出版、2005）がある。 [ <a href="#footnote-id-01">↑</a> ]<br />
<a name="footnote-02">注2</a>： アメリカ人は概して内向的な人びとである。異文化に対して関心がない、というのは私の偏見だろうか。とりわけ内陸部ではその傾向が顕著である。ちなみに、アメリカのパスポート所持率は14%に過ぎない（日本は約40%）。  [ <a href="#footnote-id-02">↑</a> ]</p>
<p>（隔週日曜更新）</p>
<hr />
<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>第9回　文化の違い？ ―マキシモ・ネルソン投手の逮捕がなげかけた問い―</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Jun 2010 00:00:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
		<category><![CDATA[スポーツ]]></category>
		<category><![CDATA[ドミニカ]]></category>
		<category><![CDATA[フィールドワーク]]></category>
		<category><![CDATA[人類学]]></category>
		<category><![CDATA[移民]]></category>
		<category><![CDATA[窪田暁]]></category>
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写真： 浅瀬で舟を操る漁師。ドミニカ共和国、サリーナスにて。
平均的なアメリカ人がアメリカのドミニカ人について知っているのは、サミー・ソーサのような大リーガーのことか、ドラッグの売人のことである。……ステレオタイプ化さ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/06/transborderplayers-09-01-540.jpg" alt="" title="transborderplayers-09-01-540" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-3970" /><br />
写真： 浅瀬で舟を操る漁師。ドミニカ共和国、サリーナスにて。</p>
<blockquote><p>平均的なアメリカ人がアメリカのドミニカ人について知っているのは、サミー・ソーサのような大リーガーのことか、ドラッグの売人のことである。……ステレオタイプ化されない時のドミニカ人は、大きく括られての『ドミニカ人』である。</p>
<p>―― P・ペッサール『a visa for a dream』</p></blockquote>
<h4>くりかえされる成功物語</h4>
<p>中日ドラゴンズのドミニカ出身選手、マキシモ・ネルソン投手が銃刀法違反（銃弾所持）容疑の現行犯で逮捕された。初犯だったため送検後すぐに釈放・不起訴となったものの、球団は3か月間の試合出場停止処分を決めた。</p>
<p>このニュースを耳にして、これまで彼について書かれた記事に目を通してみた。2年前、ドラゴンズへの入団が決まった翌日の紙面では、この契約がサクセスストーリーであるかのように紹介されている <a name="footnote-id-01"></a><sup><a href="#footnote-01">[1]</a></sup> 。その記事によると、ドミニカにあるヤンキースのアカデミーから、アメリカのマイナーリーグに昇格。しかし、2004年のシーズンオフに、30人のマイナー選手が関与する「偽装結婚事件」が発覚。以後、アメリカ滞在ビザが発給されないために、アメリカでプレーすることができなくなり、大リーガーへの道は絶たれてしまった。イスラエルリーグでプレーした後は、故郷の妻の実家に居候し、畑で野菜をつくったり、海で魚を釣ったりと野球浪人の生活を送っていたという。記事は、「お金をドミニカの家族に送金したい」という彼のコメントを載せて、今後のサクセスストーリーに注目しよう、と結んでいる。</p>
<h4>ステレオタイプの誘惑</h4>
<p>10年前にならすっと読むことができたこの種のエピソードが、ドミニカに毎年のように通うようになった今では、どうしても引っかかる。異文化を語るとき、自分たちの基準にあてはめたひとつの「物語」がつくられ、そのなかに散りばめられた巧妙なレトリックは、読者に偏見を植えつけ、やがてステレオタイプとして定着していく。では、これに代わる自由な「物語」はいかに紡ぎだせばいいのか。<br />
その問いに対する答えのひとつは、その出来事がおきている社会の文脈のなかで理解することであろう。そこで私は、調査地で出会ったサクセスストーリーではない無数の「物語」に想像をめぐらせてみようと思う。</p>
<p><span id="more-3960"></span></p>
<h4>結婚＝ビザ？</h4>
<p>私たちは「偽装結婚事件」のように、偽装や事件の文字を見ると、すぐに悪いイメージをいだいてしまう。それはパスポートと航空券さえあれば、どこへでも行けてしまう日本人特有の受けとめ方である。たとえ観光旅行でも滞在ビザを持っていなければアメリカへの入国が認められないドミニカの人びと（特に貧困層の人びと）が、アメリカ滞在ビザを取るには、かなりの知恵と努力、そして幸運が必要となる。そもそもアメリカが、ドミニカ人に対して無条件にビザを発給してくれないのであれば、アメリカ側が要求するビザ発給要件を満たさなければならないのはあたりまえである。そこで選択された方法が、滞在資格を有する人間との「結婚」だったとしても不思議ではない。このことはドミニカで、正式に結婚する夫婦はまれであり、「正式に結婚＝アメリカのビザ取得」と同義となっていることからも容易に想像できる。</p>
<h4>もうひとつの物語</h4>
<p>結婚の話でいえば、この短い記事のなかに、「妻の実家に居候」とさらっと書かれているので読者の多くが、「ああ強制送還をされて、マスオさんのように肩身の狭い思いをしてきたんだな」と感じたはずだ。では、この記事をスペイン語に訳して、ドミニカの人たちに読んでもらったらどんな反応をするだろうか？　<br />
すぐに居候という単語をなんと訳せばいいのかという問題に直面する。英語のパラサイトに似たスペイン語はあっても、ドミニカでは、妻の実家に住む夫を指してパラサイトとは言わないからだ。拡大家族の回で触れたように、核家族単位で独立した生計を立てているのではなく、親・兄弟・親戚、あるいは前の夫やその家族にまでおよぶ広い範囲の親族が密接に関係して、それが社会の最小単位となっている地域では、妻の実家に「居候」する男などいちいち話題にするような存在ではないのだろう。</p>
<p>そもそもサクセスストーリーを前提にした、自分たちの基準でつくられた「物語」なんておもしろいのだろうか。地球の反対側に自分たちとは異なる価値観を持って生きている人たちがいる。そんな「物語」に想像をめぐらせてみるとより人生が豊かになると思うのだが……。</p>
<h4>美しい花には<ruby><rb>棘</rb><rp>（</rp><rt>とげ</rt><rp>）</rp></ruby>がある</h4>
<p>ネルソン投手が逮捕された直後、中日のある選手が「文化の違いかな」とのコメントを残している。「文化の違い」という言葉は、両義性を持つ。ひとつは、違う文化を持っている（ここでは一般人でも許可さえあれば銃を持ってもいい社会で生きてきた）のだから、それを理解しないといけないという考え方。もう一方は、我々とはまったく違う文化に育ったのだから、理解しあうことは不可能だというもの。異文化理解という美しい花に生える棘。文化的他者を排除あるいは差別するための獰猛な棘。そこには少なからずステレオタイプの誘惑が影を落としている。多様な文化的背景を持った人びとが、同じ国家や地域で共存していくためには避けては通れない課題である。</p>
<p><a name="footnote-01">注1</a>： 中日スポーツ、2008年2月13日。</a> [ <a href="#footnote-id-01">↑</a> ]</p>
<hr />
<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
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		<item>
		<title>第8回　ドミニカからつづく日本球界への道</title>
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		<pubDate>Sun, 04 Apr 2010 00:00:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
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写真： トライアウトの出番を待つ少年、ドミニカ共和国サント・ドミンゴにて
トライアウト
2008年12月。サウスポーの彼は右手にグローブをはめると、私のほうをちらりと見やり元気よくマウンドへと駆けだしていった。首都サン [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/04/transborderplayers-08-01-540.jpg" alt="トライアウトの出番を待つ少年、ドミニカ共和国サント・ドミンゴにて" title="トライアウトの出番を待つ少年、ドミニカ共和国サント・ドミンゴにて" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-3679" /><br />
写真： トライアウトの出番を待つ少年、ドミニカ共和国サント・ドミンゴにて</p>
<h4>トライアウト</h4>
<p>2008年12月。サウスポーの彼は右手にグローブをはめると、私のほうをちらりと見やり元気よくマウンドへと駆けだしていった。首都サント・ドミンゴの片隅にある野球場。普段は<a href="http://www.mlb.com/" target="_blank">大リーグ</a>を目指す野球少年たちの練習場に使われているが、この日ばかりは様子が違っていた。ネット裏に陣取ったのは、日本の<a href="http://www.npb.or.jp/" target="_blank">プロ野球</a>関係者たち。ドミニカで初めてとなる<a href="http://dragons.jp/" target="_blank">中日ドラゴンズ</a>のトライアウトがおこなわれたのだ。肩慣らしを終えていよいよ本番。キャッチャーに背を向け大きく深呼吸をし、投球練習をはじめるエクトルを見ながら、初めてバニの球場で出会った日のことを思い出していた。</p>
<p>19歳のエクトルは2年前、大リーグ球団のアカデミーと契約するが、ケガなどの不運もあってアメリカに渡ることはできなかった。地元に帰ると妻と子どもが待っていた。銀行に預けていた契約金を切り崩しながら、ぶらぶらする毎日。アカデミーにいるときに、左投手が重宝されるのを知っていたし、まだ可能性はあるはずだと疑わなかったエクトルは、ふたたび昔のコーチのもとを訪ねる。初めて彼の投球を見たとき、素人目には凄い投手に映った。スピードガンの表示は90マイル（144キロ）をさしていたし、コントロールも申し分ない。なので、遅かれ早かれ、どこかの球団が彼と契約するだろうと簡単に考えていた。</p>
<p>バックネットに直接あたってしまう暴投が続く。日本のボールになれないのか、初めてのマウンドに足をとられているのか……。その後も思ったところにボールがいかない。野次馬のあいだから失笑がもれる。気の毒なくらいに顔が引きつっている。見かねたコーチが、投球フォームのアドバイスをするが、今度はフォームに気をとられてスピードが落ちてしまう。いつもの投球が戻らないまま、トライアウトが終った。</p>
<p><span id="more-3677"></span></p>
<h4>「就活の場」としてのウィンターリーグ</h4>
<p>アメリカでMLBのシーズンが終わるころ、ドミニカのウィンターリーグが幕をあける。全6球団で構成されるこのリーグ戦には、アメリカで活躍する選手が数多く参加するために白熱した戦いが繰り広げられる。10月なかばに開幕し、1月のプレーオフ、2月初旬のカリビアンシリーズ <a name="footnote-id-01"></a><sup><a href="#footnote-01">[1]</a></sup> が終わるまでのあいだ街角の話題を独占する。</p>
<p>数年前からドラゴンズは、数名の若手選手をウィンターリーグに派遣するようになった。大リーグで活躍する選手に混じってプレーができる貴重な機会と考えたからであろう。実際にその効果はめざましく、<a href="http://dragons.jp/teamdata/players/yoshimi_k.html" target="_blank">吉見一起</a>投手や<a href="http://dragons.jp/teamdata/players/nakata_k.html" target="_blank">中田賢一</a>投手が中心選手に育っていることはよく知られている。彼らの武者修行にはコーチ、ブルペン捕手、通訳が帯同する。選手の指導やサポートがおもな役割であるが、もうひとつの仕事がドミニカ人選手のスカウトだ。</p>
<p>ウィンターリーグには、翌年の契約先が決まっていない選手が数多く出場する。ほとんどの選手が、マイナーリーグではよい成績を残しながら、メジャーに定着するにはもう少しというレベルである。一方で、球場にはイタリア、メキシコ、ベネズエラ、台湾のプロ球団のスカウトが顔をそろえ、激しい選手争奪戦が繰り広げられる。選手にとっては自分を売りこむ貴重な就職活動の場なのだ。</p>
<h4>夢をかなえたもの、かなえられなかったもの</h4>
<p>昨年、ドラゴンズに入団した<a href="http://dragons.jp/teamdata/players/t_blanco.html" target="_blank">トニー・ブランコ</a>もそのような選手のひとりだった。1999年にレッドソックスと契約してはじまった野球人生。ドミニカのアカデミーからメジャーリーグまでのぼりつめたものの、メジャーでは結果を残すことができなかった。マイナーリーグで好成績を残しても給料は微々たるもの。くわえて毎年、若い選手が入ってくる。いつクビを宣告されても文句はいえない。気がつけばマイナー生活も10年。それが2008年までのブランコの野球人生だった。</p>
<p>しかし、その年のウィンターリーグで、ホームランを打ちまくっていたブランコにドラゴンズのコーチが興味をもつ。「あいつおもろそやな」といったかどうかは定かではないが、このコーチの眼力は確かだった。3000万円以下の年俸で獲得できたうえに、昨年度のセ・リーグ二冠王（本塁打、打点）に輝いたのだから。昨年の活躍のおかげで、今年の年俸は1億6000万円（推定）になった。マイナー暮らしの長かった苦労人が、新たな移民先で夢をかなえた。</p>
<p>2009年夏。半年ぶりに訪れたバニの球場では、いつものようにアカデミー契約をめざす少年たちが灼熱の太陽の下で汗を流していた。顔見知りの少年たちから声をかけられる。言葉を返しながらも、視線はグランドの隅々を探していた。しかし、とうとう一番会いたかったエクトルの姿を見つけることができなかった。</p>
<p>注<br />
<a name="footnote-01">1.</a> メキシコ、プエルト・リコ、ベネズエラ、ドミニカのウィンターリーグ優勝チームとのあいだで争われるカリブ海地域チャンピオンシップ。</a> [ <a href="#footnote-id-01">↑</a> ]</p>
<hr />
<p><a href="/transborder-players/01-to-dominica/">第1回 漂流のはじまり……ドミニカ共和国へ</a><br />
<a href="/transborder-players/02-extended-family/">第2回 拡大家族</a><br />
<a href="/transborder-players/03-uncertain-promise/">第3回 約束――その不確かなもの</a><br />
<a href="/transborder-players/04-fritura/">第4回 フリトゥーラ</a><br />
<a href="/transborder-players/05-daily-life-in-the-field/">第5回 調査地での日々</a><br />
<a href="/transborder-players/06-baseball-immigrants/">第6回 「野球移民」降誕</a><br />
<a href="/transborder-players/07-when-the-earth-quakes-heiti-and-dominica/">第7回 大地が振動するとき ―ハイチとドミニカの関係―</a><br />
<strong>第8回 ドミニカからつづく日本球界への道</strong></p>
<hr />
<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
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		<item>
		<title>第7回　大地が震動するとき ―ハイチとドミニカの関係―</title>
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		<pubDate>Sat, 13 Mar 2010 03:00:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
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		<category><![CDATA[ハイチ]]></category>
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		<category><![CDATA[移民]]></category>
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写真：路上でマニ（ピーナッツ）を売るハイチ系の男性、サント・ドミンゴにて
ハイチ地震
2010年1月12日、現地時間午後4時53分、大地が揺れ動き、ハイチという国が一躍有名になった。そして同じ島をわけあっているドミニカ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/03/transborderplayers-07-01-540.jpg" alt="路上でマニ（ピーナッツ）を売るハイチ系の男性、サント・ドミンゴにて" title="路上でマニ（ピーナッツ）を売るハイチ系の男性、サント・ドミンゴにて" width="540" height="405" class="alignnone size-full wp-image-3444" /><br />
写真：路上でマニ（ピーナッツ）を売るハイチ系の男性、サント・ドミンゴにて</p>
<h4>ハイチ地震</h4>
<p>2010年1月12日、現地時間午後4時53分、大地が揺れ動き、ハイチという国が一躍有名になった。そして同じ島をわけあっているドミニカもしかり。ハイチの首都ポルトー・プランスを襲ったマグニチュード7.0の大地震で、23万人が死亡、150万を超える人びとが住居を失った。地震発生から2週間後の1月24日、私は多くの被災者救援ボランティアにまじってドミニカのラス・アメリカス国際空港に降り立った。彼らはハイチの空港が閉鎖されているので、ドミニカから陸路、国境を越えてハイチへと向かうため、こちらはドミニカで継続中のフィールドワークをおこなうためである。</p>
<p>最初の情報提供者は、空港で拾ったタクシーの運転手。<br />
「あの時は運転中だったけど、しばらくは何が起こったかわからなかった。車を停めて、揺れがおさまるのを待ったよ」<br />
その後も数度の余震を感じたというが、幸いにもドミニカ国内に被害はなかったとのこと。タクシーが首都サント・ドミンゴ中心部にさしかかる。なるほど、半年前ととくに変わった形跡もなく、穏やかないつもの光景だ。ただし、その光景には欠かせない重要なピースが抜け落ちている――ハイチ系移民労働者の姿である。普段なら通りごとに、必ず三輪自転車を停めてジュースを売るハイチ系の人たちを目にするのだが、やはり祖国に帰ったのだろうか。めっきりその数が減ったように思う。</p>
<p><span id="more-3439"></span></p>
<p>今回の地震については、ドミニカに滞在中、この運転手以外からも話を聞く機会があった。しかし、彼らの言葉をそのまま書くと、ドミニカ人のハイチに対する複雑な感情のために、誤解を招く恐れがある。そのため、ここでは先ず、この感情についての若干の説明から始めたい。</p>
<h4>アンチ・アイティアニスモ</h4>
<p>ドミニカは多くの移民を海外に送り出しており、彼らからの送金が国民経済を支える移民送出国家である。統計や文献によるとその数は200万人以上。統計に表れない実数を含めると300万人と推定する研究者もいる。総人口が約900万人だから、その3分の1が海外で暮らしていることになる。一方で、200万人近いハイチからの移民労働者がドミニカ国内に暮らしている。ちょうど海外に出て行ったドミニカ人の穴埋めをするかのように。その多くは、サトウキビ畑での農作業や首都サント・ドミンゴの建築作業員、マンションの門番といったドミニカ人がやらなくなった職種に就いている。</p>
<p>こうした過酷な労働に加え、ハイチ系移民労働者はホスト社会からの激しい差別にさらされている。プロローグで書いたように、ドミニカはかつてハイチによって統治されていた時期がある。その経験が、ハイチ系の人びとへの異常なまでの蔑視をうみだした。「アンチ・アイティアニスモ（反ハイチ主義）」と呼ばれるこの感情は、しかし、たんなる差別意識ではない。</p>
<h4>逆説的な思い</h4>
<p>小さな島に二つの国家が併存する特殊な環境。スペインとフランスという異なる宗主国に支配された歴史。一方はスペイン語を、他方はフランス語とクレオール語であるパトゥワ語の二つの言葉を話す。ラテンアメリカで最初に独立を果たしたハイチは、それゆえに近代化が遅れ、結果的にラテンアメリカの「最貧国」であると世界銀行に格付けされている。</p>
<p>両国ともに、アフリカから連れてこられた奴隷が持ち込んだブードゥー教が土着化しており、表面上はカトリックを信仰しながらも、折に触れてブードゥー教の宗教儀礼が実践されている。その宗教儀礼では、アフリカから伝わった打楽器を激しく叩きながらそのリズムにあわせて踊るのだが、ドミニカの代表的な音楽であるメレンゲにタンボーラ（両面太鼓）という楽器が欠かせないのは象徴的にうつる。それにもかかわらず、ドミニカの人びとがハイチ人を差別する際に、自身のことは棚にあげてその土着性を標的にする。例えば、ドミニカの子どもが、唇が分厚い友人を「お前はハイチで生まれたんやろ」とからかうとき、大人が肌の色が濃い人について「あいつはまるでハイチ人みたいだ」と陰口をたたくとき、また「ハイチの女はねぇ……」と卑猥な冗談を飛ばすとき、自己に内在化する土着性、あるいはアフリカ的なるものをハイチ人に背負わせて自身を近代の側に対置することで、優越感を獲得しているのだ。したがって、「アンチ・アイティアニスモ（反ハイチ主義）」とは、自身の内なる黒人性を否定しつつも、確認しておきたいというパラドキシカルな感情のことを指しているのである。</p>
<h4>大地と感情が揺れ動く</h4>
<p>今回のハイチ地震に対するドミニカ人の反応は、「変な宗教を信仰しているからバチがあたったのだ」であり、「世界中からの援助で、今やハイチは億万長者やね」という辛辣なものである。しかし、こういった言説は、これまで述べてきたように、ハイチという存在が、長年にわたってドミニカ人の自我意識の形成に関わっており、その感情の発露が差別という形で表出したものである。そして、今回のような未曾有の地震が起きた際に可視化されるのである。</p>
<p>そんな事を考えていると、運転手が「地震以降、外国からやってくる報道関係者やボランティアをハイチ国境まで何組か運んだおかげでいい稼ぎになったよ」とニヤリと笑った。タクシーが交差点に入り、速度を落とす。信号待ちの車の隊列をぬって、ハイチ系の物売りが数人こちらに向かってくる。そのうちの一人、マニ（ピーナッツ）を売っている男性と目があった。その瞬間、かつてスペイン語学校で机を並べたハイチ系の友人たちの顔が鮮明によみがえり、不意に胸がしめつけられた。その時の私たちは、顔を合わすたびに片言のスペイン語と満面の笑顔だけで、必死に何かを伝えようとしていたし、言葉のわからない外国で生活をする不安や寂しさを共有していたように思う。こみあげてきた感傷にまかせるままに、普段なら見向きもしないマニを買ってみようかと窓を開けかけたとき、運転手が車を急発進させて物売りの男を置き去りにした。</p>
<hr />
<p><a href="/transborder-players/01-to-dominica/">第1回 漂流のはじまり……ドミニカ共和国へ</a><br />
<a href="/transborder-players/02-extended-family/">第2回 拡大家族</a><br />
<a href="/transborder-players/03-uncertain-promise/">第3回 約束――その不確かなもの</a><br />
<a href="/transborder-players/04-fritura/">第4回 フリトゥーラ</a><br />
<a href="/transborder-players/05-daily-life-in-the-field/">第5回 調査地での日々</a><br />
<a href="/transborder-players/06-baseball-immigrants/">第6回 「野球移民」降誕</a><br />
<strong>第7回 大地が振動するとき ―ハイチとドミニカの関係―</strong></p>
<hr />
<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
]]></content:encoded>
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		<title>第6回 「野球移民」降誕</title>
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		<pubDate>Tue, 19 Jan 2010 09:50:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>staff</dc:creator>
				<category><![CDATA[野球＋越境する漂流者たち]]></category>
		<category><![CDATA[スポーツ]]></category>
		<category><![CDATA[ドミニカ]]></category>
		<category><![CDATA[フィールドワーク]]></category>
		<category><![CDATA[人類学]]></category>
		<category><![CDATA[移民]]></category>
		<category><![CDATA[窪田暁]]></category>
		<category><![CDATA[野球]]></category>

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		<description><![CDATA[
写真：アメリカ合衆国ペンシルバニア州フィラデルフィア市シチズンズバンク・パークにて
MLB ―― 移民国家の縮図
野茂英雄投手がメジャーリーグ・ベースボール（MLB）に移籍した1995年のことである。NHKの衛星放送か [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/01/pic06-01-540.jpg"><img src="http://www.shimizukobundo.com/wordpress-top/wp-content/uploads/2010/01/pic06-01-540.jpg" alt="pic06-01-540" title="pic06-01-540" width="540" height="361" class="alignnone size-full wp-image-3067" /></a><br />
写真：アメリカ合衆国ペンシルバニア州フィラデルフィア市シチズンズバンク・パークにて</p>
<h4>MLB ―― 移民国家の縮図</h4>
<p><a href="http://www.nomo-radiant.jp/" target="_blank">野茂英雄</a>投手が<a href="http://mlb.mlb.com/" target="_blank">メジャーリーグ・ベースボール</a>（MLB）に移籍した1995年のことである。NHKの衛星放送から流れる試合をぼんやりとながめていた私は、カメラが映しだす観客席の光景に釘づけとなった。当時、野茂投手のチームメイトに<a href="http://sports.espn.go.com/mlb/players/stats?playerId=2932" target="_blank">ラウル・モンデシー</a>――ドミニカ出身で新人賞を獲得――という外野手がいた。彼が打席に立つたびに、<a href="http://losangeles.dodgers.mlb.com/la/ballpark/">ドジャー・スタジアム</a>の観客席から「ラウール」とスペイン語なまりの英語で掛け声がかかるのだ。アナウンサーが「ロサンゼルスには中南米からの移民が多く暮らしていまして、ラテン系の選手に対して熱心に声援をおくるのです」と説明をくわえた。当時の日本では、現在ほど街なかで外国人を見かける機会が少なかったから、ドジャー・スタジアムにつめかけた移民たちの表情までをはっきりと捉えた映像は新鮮だった。</p>
<p>その試合にはモンデシー選手のほかにも、ドミニカ、プエルト・リコ、イタリア、韓国に出自をもつ選手たちが出場していた。こんなことがあったのでMLBの選手名鑑を買ってきて選手の出身地を拾いあげてみると、なんと全選手のうち3割近くが外国出身者であった。アメリカ生まれとなっている選手でも名前がスペイン語読みの選手（祖先に中南米出身をもつ者）をくわえると、その比率はさらにあがる。MLBにたどりついた経緯はそれぞれ違うだろうが、国境を越えてアメリカにやってきた数多くの移民たちと同様に、彼らもまたMLBで野球をするために国境を越えてきた移民たちということになる。</p>
<p>今やMLBは、スタジアムにやってくる観客、プレーする選手たちも外からやってきた人たち抜きには成り立たなくなっている。歴史的に移民を受け入れることで国家を形成してきたアメリカでは、ナショナル・パスタイム（国民的娯楽）といわれるベースボールも当然の帰結として多民族化する運命にあったということだろうか。</p>
<p><span id="more-3035"></span></p>
<h4>助っ人ガイジンから野球移民へ</h4>
<p>それまで日本のプロ野球界も、毎年一定数の外国人選手を受け入れてきた。「助っ人ガイジン」と呼ばれる彼らの成績が、ペナントレースの行方を左右することもままあったが、当時、日本にやってきた「助っ人ガイジン」のほとんどが、最盛期をすぎたロートル選手であったことも事実である。MLBで成績を残せなくなったベテラン選手が、「物見遊山」感覚で高額の契約金を目当てにきていたのだ。そのため全力でプレーする選手は稀で、守備もお粗末なものだった。もっとも球団側もホームランさえ打ってくれれば、あとのことは目をつぶろうという姿勢であったのだが。また、複数年にまたがって日本でのプレーを望む選手は少なく、1年限りでアメリカに帰ると決めているためか、マンションを借りずに、ホテル暮らしを続けるまさに「観光客」のような選手も多かった。</p>
<p>そんな状況に変化がみられるようになったのはいつ頃からだろうか。今や「助っ人ガイジン」というだけでレギュラーが確約される時代ではない。外国人枠の拡充、育成選手契約制度 <a name="footnote-id-01"></a><sup><a href="#footnote-01">[1]</a></sup> の導入などにより、各球団はつねに5、6人の外国人選手を抱えるようになり、すべての外国人選手に高額な契約金を払えなくなった。かつては1億円をくだらなかった年俸も今では、3000万円以下の契約が増えている。育成選手契約にいたっては300万円程度である。</p>
<p>このような時代の流れにともない、日本にやってくる選手の出身地にも変化がみられるようになった。かつてはアメリカ出身選手がほとんどであったが、近年ではドミニカ、ベネズエラ、プエルト・リコ、パナマといったカリブ海地域からの選手が目立っている。共通しているのは、世界経済システムの周縁に位置する貧しい地域で生まれ育ったことである。彼らにとって、3000万円以下の年俸でも経済格差を考えると夢のような金額なのだ。</p>
<p>こういった条件でやってきた外国人選手は出場機会が約束されておらず、日本の若手選手との競争に勝つことが義務づけられた。成績があがれば年俸もあがることを知っているので真面目に練習に取り組み、試合では常に全力でプレーをする。結果的に、日本滞在が長期間になっていく。いわば「野球移民」の半定住化がおきているのだ <a name="footnote-id-02"></a><sup><a href="#footnote-02">[2]</a></sup> 。労働移民のほとんどが、過酷な労働やなれない移民先での生活にとまどいながらも、故郷への送金を続けている。プロ野球選手としてはけっして高くない契約金で、必死にプレーする野球選手にとっても故郷への送金がそのモチベーションとなっているのだ。</p>
<p>国内のプロ野球界において、外国人選手の性質がかつての「助っ人ガイジン」から「野球移民」へとあきらかにシフトしたといえそうである。これをもたらしたのは、日本人選手のMLBへの流出、選手年俸の高騰、野球人気の低迷による観客数の減少といったプロ野球界の構造変化である。しかし、その契機となったのは、ひょっとすると1995年の野茂秀雄投手だったのかもしれない。</p>
<p>注<br />
<a name="footnote-01">1.</a> 1軍の試合に出場できる支配下登録選手のレベルには達しないが、将来的な活躍が期待できる若手選手を育成する目的で2005年に創設。</a> [ <a href="#footnote-id-01">↑</a> ]<br />
<a name="footnote-02">2.</a> 楽天、オリックスなどに在籍したフェルナンデス選手、巨人のラミレス選手などがその代表。</a> [ <a href="#footnote-id-02">↑</a> ]</p>
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<p><a href="/transborder-players/01-to-dominica/">第1回 漂流のはじまり……ドミニカ共和国へ</a><br />
<a href="/transborder-players/02-extended-family/">第2回 拡大家族</a><br />
<a href="/transborder-players/03-uncertain-promise/">第3回 約束――その不確かなもの</a><br />
<a href="/transborder-players/04-fritura/">第4回 フリトゥーラ</a><br />
<a href="/transborder-players/05-daily-life-in-the-field/">第5回 調査地での日々</a><br />
<strong>第6回 「野球移民」降誕</strong></p>
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<p><h3>著者紹介</h3>
<div class="author-profile">
	<p><a href="/image/portrait-kubota-640.jpg"><img src="/image/portrait-kubota-240.jpg" alt="窪田　暁 （くぼた・さとる）" /></a></p>
	<p><strong>窪田　暁 （くぼた・さとる）</strong></p>
	<p>1976年生まれ。私立大学にて事務職員として勤務しながら、<a href="http://www.narapu.ac.jp/" target="_blank">奈良県立大学</a>商学部、<a href="http://www.kobe-u.ac.jp/" target="_blank">神戸大学</a>大学院総合人間科学研究科を卒業。</p>
	<p>現在、<a href="http://www.soken.ac.jp/" target="_blank">総合研究大学院大学</a><a href="http://www.soken.ac.jp/rcourse/bunka/" target="_blank">文化科学研究科</a>（<a href="http://www.minpaku.ac.jp/" target="_blank">国立民族学博物館</a>）に在籍。ドミニカ共和国からアメリカに渡る野球選手を「野球移民」と定義し、彼らの移動経験とスポーツを介した国際移動の実態を現地調査によってあきらかにすべく研究中。</p>
</div>
</p>
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