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「野球移民」を生みだす人びと ドミニカ共和国とアメリカにまたがる扶養義務のネットワーク

2016年2月18日

窪田 暁 著

ドミニカ共和国の少年はどのように野球と出会い、海を越えアメリカを目指すのか?

外国出身メジャーリーガーを最も多く送りこんでいる(※)ドミニカ共和国。気鋭の若手人類学者が、ドミニカとアメリカでの丹念なフィールドワークをもとに、「野球移民」と彼らをとりまく人びとの知られざる姿を描き出す。(※2015年シーズン終了時点、138人)

メジャーリーガーを含む現役プロ・OBとその家族、契約をめざす少年たち、スカウト、コーチへのインタビューや参与観察にもとづく「フィールドノート」60編も収録。

ミゲル・テハダ、ルイス・ビスカイーノの出身地区ロス・バランコネスでは元アカデミー契約選手の家族と生活をともにしながら取材。首都サント・ドミンゴではメジャー球団タンパベイ・レイズのアカデミーで選手・スタッフにインタビュー。アメリカではニューヨーク市ワシントンハイツ、ペンシルバニア州ヘーズルトン、マサチューセッツ州ボストンおよびリンでドミニカ移民を調査。

国境を越える「野球移民」たちの民族誌。

いま、あらためてノートを見返すと、ジョニーのこんなことばが記されていた。
「ドミニカの観光ガイドブックみたいなものは書かないでくれ。ビーチリゾート、世界遺産、温厚な人柄……。そんなきれいごとはウンザリだ。おまえは長期間、ロス・バランコネスに暮らして現実の生活を見たのだから、ありのままのドミニカの姿を日本人に伝えてくれ」
(「おわりに」より)

日本図書館協会選定図書(第2989回 平成28年3月23日選定)

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第33回 クリスマス・プレゼント

2013年1月19日

クリスマス・プレゼントの列に並ぶ住民たち。ドミニカ共和国、バニのテハダ邸にて
写真: クリスマス・プレゼントの列に並ぶ住民たち。ドミニカ共和国、バニのテハダ邸にて

冬の風物詩

常夏の島にも冬はやってくる。11月末、これまでの体にまとわりつくような蒸し暑さが消え、朝晩はシャツのうえにもう一枚はおるものが必要になる。このころを境に、別れ際に一言「よいクリスマスを!」と添えられ、人びとの挨拶がクリスマス仕様になる。日本の「よいお年を!」のようなもので、特にいつからという決まりはないが、寒くなるのにあわせて耳にする機会が増える。季節の変化を感じることの少ないドミニカにあって、風物詩とも呼べる貴重なことばとなっている。

普段は、その日暮らしに近い生活を送るバリオの人たちにとっても、クリスマスは特別のようだ。11月はあまり出歩かずに節約し、新しい服やプレゼントを買いそろえて来たる日に備える。このあたりも日本の正月に近い。クリスマス当日は、鶏を丸焼きにし、パンと一緒に夕食を家族でかこむ。晩酌の習慣はないが、この日ばかりはワインを空ける。ささやかだが、ひとつの区切りを迎えた厳粛な気持ちになる。

バリオではじめてのクリスマスを迎えた日の朝、私はもうひとつの風物詩を眼にすることになった。近所の人たちを荷台に積んだトラックが家のまえを通り過ぎていったのである。レイナにたずねると、バリオ出身の大リーガーであるミゲル・テハダが隣町の豪邸でクリスマス・プレゼントを配るというではないか。私はジョニーを誘って、バイクで追いかけることにした。テハダの豪邸にはすでに100人近いバリオの住民が集まっていて、プレゼントが配られるのを待っているところだった。

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ビルマ(ミャンマー)で変わったこと、変わらないこと

2012年7月6日

 2011年末からビルマ(ミャンマー)情勢は急激な変化を迎えている。同国での変化、変わらないこと、確かなこと、確かではないことは何か。根本敬・田辺寿夫の近著、『アウンサンスーチー ――変化するビルマの現状と課題』(角川書店)でも、「何がどこまで変わったのか」が簡潔に述べられているが、同書とは一部重なりつつも、異なる側面から、このテーマをまとめてみよう。

ビルマ(ミャンマー)の変化
 最近のビルマの変化といえば、アウンサンスーチーの解放、「総選挙」と議会の招集、海外メディアへの解放、一定数の政治囚の釈放、補欠選挙でスーチーが国政へ復帰したこと、諸民族との停戦に向けた話し合いの開始、二重為替の撤廃と管理変動相場制への移行、海外投資の積極的な呼び込み、などが挙げられる。
 
 項目だけを列挙しても、どれほどこの国が変わりつつあるのか一望できよう。「軍政から民政移管へ」という変化を期待する声は国内外を問わず大きい。私の知る在日の難民のなかにも、この「チャンス」を活かしたいと思っている人もいるようだ。他方で、変わらないこともある。根本・田辺の近著の冒頭で述べられているように、「当面、変化しそうにもないビルマ」も見据え、変化の時代に、「何が変わらないか」にも気をつける必要がある。

変わらないもの
 よく知られているように、現体制の基盤となる憲法は、軍政時代の権力構造を温存するよう仕組まれている。例えば、議会の25%は軍関係者が占めること、大統領には軍事的知識が必要であること、国防大臣、内務大臣、国境担当大臣は、大統領ではなく国軍最高司令官が指名すること。つまり有事のさいは、これまでどおり全権を国軍が握れる仕組みになっている(注1)。

 また、内戦が完全に終結したわけではない。中国と国境を接するカチン州では、政府とカチン独立軍(KIA)との17年間の停戦合意が崩れたため、現在も数万人が住居を追われ、7千人~1万人が中国へ避難していると伝えられる。スーチーの動きをはじめとする「中央」での変化は伝えられるが、あいかわらず「辺境」地域で起こっていることは忘れ去られている(注2)。

 バングラデシュに近い国境の西側では、「仏教徒のアラカン」と「ムスリムのロヒンギャー」との「宗教対立」が報じられている。しかし、これは宗教対立というよりも、軍政時代の負の遺産であろう。ビルマでは、国籍法(1982年)によって「国民」の範疇が定められたが、そこからロヒンギャーは排除された。結果、ロヒンギャーを排斥する動きは、「法的な」正統性をももつことになる(注3)。軍政時代、いわゆる「少数民族」は、多数派のビルマ族に対して不利な状況におかれることが多かった。そうした差別は連鎖し、「少数民族」が、さらなる「少数者」であるロヒンギャーを暴力的に排斥することになる。

 「仏教徒」の側の言い分は、ムスリムのロヒンギャーは一夫多妻だから人口が増えて我々の土地を奪う、というものだ。しかし実際に2人以上の妻をもつにはそれに見合った経済力と社会的地位が必要で、まるで無限に増殖するロヒンギャーという言い分は、適切ではない。「宗教対立」の名のもと、何が見えなくなっているのかを見極める必要がある。

確かなこと
 他方で、国内外の多くのビルマを出身とする人は、最近の変化を受けて、これまでなかった希望を抱いている。以前に、「信頼」と「不信」をテーマに記事を書いたが、まさに今は、「信頼」が醸成されつつある時期とも読める。外の人間は、批判をすることよりも、信頼醸成に資するアプローチをとる必要もあるだろう。海外投資が今の「民主化」を後戻りできないものにする、という見方もあるし、軍関係者でさえ、それを望んでいないという声もある。

 「民政移管」にともない「民主化運動」のあり方も変化を迫られている。隣国タイを中心に国外で政治活動を続けてきた在外組織は、これまでどおり活動資金を得ることが難しく、存続の危機にさらされている。制裁から投資へという大きな流れのなか、国内にヒトもカネも関心も流れ込んでいるからである。ビルマからタイへ流れてくる移民/難民の駆け込み寺であり、年間10万人もの患者を診療しているタイのメータオクリニックもまた、この流れの渦中にある。これまでドナーとなっていた組織が国内投資へシフトするにしたがい、150人ものスタッフをリストラすることになった。また、政府からはクリニックを国内に移転するよう要望があった(注4)。

 時代はさかのぼるが、1980年代後半~90年代にかけて、ビルマ政府は、反政府勢力の資金源を駆逐すべく国境の闇貿易を禁止し、正式な国境貿易を開始したことがある。これは、狙い通り大きな「成果」をあげ、反政府勢力の弱体化が劇的にすすんでいった。

 同じような効果を狙ったものなのかどうかは分からないが、国外に流れていたカネ・ヒト・モノの流れを制することで、政府が望む体制の土台が整いつつあるのは確かである。

 そして何よりも確かなことは、独裁者のタンシュエが“見事”ともいえる幕引きをはかったことである。なし崩し的に「民主化」がすすむにせよ、将来の国民和解を議論するさい、ビルマの人々は、軍政時代の負の遺産と責任をいかに清算するのを望むのだろうか。

不確かなこと
 次回の選挙は、2015年に実施される。前回の選挙は、現体制をつくるための出来レースであったことが知られているが、果たして3年後は、どうであろうか。上で述べたように、大統領は軍人から選ばれるが、現職のテインセインは、3年後も軍人から支持されているのだろうか。「とりあえずASEANの議長国になって国際社会からの名誉を挽回するための変化だったから、まだ次の選挙があるまでは分からない」、という不安の声も聞こえてくる。

 2015年になって、ようやくビルマ(ミャンマー)はひとつの節目を迎えるだろう。その頃には、世界中に離散した難民の本国への帰還の目処も立っているのだろうか。

 変わったこと、変わらないこと、確かなこと、不確かなことを並べてみてみると、必ずしも、それぞれが対になっているのではなく、双方が同居した上での「変化」であることがわかる。要はこれから、ということだが、目先の変化だけに気をとられない「関与」が肝要ではないだろうか。

注1:ウェブサイトでは、根本敬 「はじめての方々への解説」の2.新憲法の中身は軍政の「合法化」を参照。書籍では、根本敬・田辺寿夫 2012 『アウンサンスーチー ――変化するビルマの現状と課題』(角川書店)を参照。

注2:ヒューマン・ライツ・ウォッチ(2012年6月26日)「中国/ビルマ:援助不足と人権侵害に苦しむカチン難民」を参照。

注3:ロヒンギャー問題の歴史的背景については、根本敬 2007 「「ロヒンギャー問題」の歴史的背景—「仏教国」ビルマの中のイスラム教徒たち」『アリンヤウン』33:10-21。また、ロヒンギャーそのものではないが、生まれながらに国民とはされないビルマのムスリム住民については、斎藤紋子 2007 「ビルマにおけるムスリム住民に対する見えざる『政策』―国民登録証にまつわる問題―」『言語・地域文化研究』13:1-16を参照。

注4:Dr Cynthia Meets with Aung Min, The Irrawaddy online. (June 26, 2012).


第32回 食卓の弁護士

2012年1月15日


写真: 移民の食卓も守るアボカド。アメリカ、ペンシルバニア州にて

昼食至上主義

レイナの闘病生活がはじまって2年がたった。いちばんの変化は、昼食の献立から肉が消えたこと。治療費と薬代をひねりだすために食費が削られることになったのだ。レイナは幼稚園の給食婦をしていたくらいだから、料理の腕には自信がある。自分の料理をおいしそうに食べる家族の姿を見るのがなによりの楽しみだった。それが昔なら鶏肉が盛られていた皿に、いまではスパゲティか生野菜が添えられているだけ。「こんなへんな料理で悪いね」と言いながらレイナが料理をとりわけてくれるのだが、本人が一番つらいことを知っているので返答に困ってしまう。

昼食の時間が近づくと、通りには胃袋を刺激するにおいが充満し、にわかに人の往来が激しくなる。職場から昼食を食べに帰る人たちや、母親からおつかいを頼まれた子どもたちだ。ドミニカの地方都市で定食屋をあまり見かけないのもうなずける。あるいは、旧宗主国であるスペインの影響がこんなところに残っているのだろうか。家族がそろって食事をとり、シエスタ(昼寝)を挟んで、ふたたび仕事に出向く。昼食が一日の中心という考えかたである。鶏かな? 魚かな? 頭のなかは今日の献立で一杯なのだろう、すれ違う人の表情もどこか明るい。

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グローバリゼーションの末端(1) セイフ・ハウス

2011年10月7日

施設での学校が休みの日、みんなで床掃除。手伝いをする子どもたちは、しっかりしていて行儀がよい。一見すると普通の民家だが、こうした態度からも、ここが施設であることが伺える。
写真:施設での学校が休みの日、みんなで床掃除。手伝いをする子どもたちは、しっかりしていて行儀がよい。一見すると普通の民家だが、こうした態度からも、ここが施設であることが伺える。

8月上旬から9月中旬まで、タイで調査していたため、ブログの更新が滞ってしまった。これからは現地での最新の事情も含めつつ更新していきたい。
これから2回にわたって、行き場のなくなった人の保護シェルターと、ゴミ捨て場で暮らす人を事例に、グローバリゼーションの末端について考えてみたい。セイフ・ハウス(safe house)とは、さまざまな事情で自分の力では生活できなくなった人を保護するシェルターのことをさす。孤児院なども含めて、タイ・ビルマ国境には身寄りのない人びとの保護施設がある。ここでは、タイ西部のカンチャナブリ県サンクラブリー郡にあるセイフ・ハウスを紹介したい。

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第31回 野球狂顛末記②-塀のなかの生活-

2011年7月13日

自由の身だったときのロヘリオ。ドミニカ共和国、バニの浜辺にて
写真:自由の身だったときのロヘリオ。ドミニカ共和国、バニの浜辺にて

刑務所へ

この日も太陽は容赦なく照りつけていた。
べへのバイクに揺られながら、塀のなかのロヘリオを思いうかべる。はやくも氷水の入ったペットボトルからは水滴が漏れはじめ、ベヘがギアを変えるたびにズボンの膝に染みをつくった。ベヘの背中が緊張している。私は昼食の入った網カゴを傾けないことに意識を集中し、それ以外はなにも考えないようにした。

刑務所は、街の入口を流れる川のふもとにある。受付にはすでに大勢の面会人の列ができており、私と同じく手に網カゴをぶらさげていた。パスポートと引き換えに入場札を受けとると、身体検査の列に並ぶ。さきに済ませたベヘが、すれ違いざまに意味ありげな笑みを投げかけてきた。パンツのなかまでチェックされるのだ。映画でしか目にしたことのない光景に、どうふるまっていいかわからない。さきほどから、地に足がつかないような感覚がつづいており、それは差し入れの昼食をチェックされているあいだもやむことはなかった。

塀の内側に入ると、バスケットコートほどの大きさの中庭に出る。その中庭を取りかこむ形で、4つの棟が建っている。中庭にいた男たちの視線が、いっせいに私に向けられ、値踏みをするかのようにずっとまとわりついて離れない。ベヘが知りあいを見つけて声をかけるまでは生きた心地がしなかった。これが塀のなかというものなのか。

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第30回 野球狂顛末記①-渡航費用の代償―

2011年6月12日

母親が準備をしたロヘリオの昼食。ドミニカ共和国、バニにて
写真:母親が準備をしたロヘリオの昼食。ドミニカ共和国、バニにて

壁の落書き

毎朝、近所のコルマドへパンを買いに行くのが私の日課である。ある日、ロヘリオの家のまえを通りかかったときにいつもと違うことに気がついた。「Rogelio no tiene la casa(ロヘリオには家がない)」と入口近くに落書きされていたのである。

平屋だろうが、高層マンションだろうが、ブロックを積みあげていくのがドミニカ流の建築スタイルである。外壁は、ブロックの表面にセメントを塗って下地にする。下地ができると、あとは施主の好きな色でペンキを塗れば完成である。どの町に行っても、素材がブロックから板にかわることはあっても、色とりどりに塗られた外壁はかわらない。強い日ざしが反射する、壁が立ち並ぶ通りを歩いていると虹のなかにいる感覚になる。なので、壁に文字が書かれてあると目をひく。たいていの場合は、「Se Vende(売り家)」「Se Alquila(入居者募集)」というものだから、内容が内容だけに、ロヘリオの家の落書きは異様にうつった。そういえばここ数日、彼の姿を見かけない。ロヘリオになにかあったのだろうか。胸騒ぎがした。

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第29回 ソーナ・フランカ

2011年4月27日


写真:ソーナ・フランカの作業風景。ドミニカ共和国バニにて

ドミニカ経済の救世主

天井の低い体育館のような建物に作業机が何百台と並んでいる。その頭上には、手もとを照らすための蛍光灯がぶらさがっている。ミシンで袖を縫いつけるもの、アイロンで皺をのばすもの、ボタンを手作業でとりつけるもの。私が訪ねた建物だけでも500人ちかい労働者がいた。大半は女性であるが、男性の姿もちらほら見かける。彼らがタンクトップやTシャツという普段着のまま仕事をしているのが、私には新鮮だった。

「こんなところで何してるの?」と声をかけられた。見れば私の調査地に住む女性である。このとき、ひとつの風景にすぎなかった空間に生の営みが満ちてきて、俄然、いきいきと輝きはじめた。ひとりひとりの顔に表情がうかびあがり、はっきりと自己主張をはじめた。ソーナ・フランカ、おもしろそうじゃないか……。

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第28回 多言語の海を泳ぐ子どもたち

2011年3月27日


写真:算数の問題を解く外国籍児童。中津小学校日本語教室にて

日本語学級

「3の段までできるようになったか。すごいな」先生にほめられたコウジ(日系ドミニカ・小学2年生)は、顔をくしゃくしゃにさせてうれしそうだ [1] 。九九カードという教材を使って、各段を暗唱できれば合格。
「アサガオ、オカシ……」少しはなれた席から、先生のことばをタドタドしく復唱する声が聞こえる。別の先生が電子辞書を片手に、フィリピンから来日してまだ2週間の女の子につきっきりで教えているのだ。もうひとつの島では、3年生のエリカ(日系ブラジル)とヨシタカ(日系カンボジア)が通常学級であった算数のテストを復習中。ふたりとも日本語で書かれた文章題に苦戦している様子がうかがえる。

愛川町立中津小学校の日本語学級での授業風景である。全校児童626人のうち、外国籍の児童は86人。日本国籍だが、日本語指導が必要な児童4人をくわえると90人の子どもが外国にルーツをもつ。このなかで日本語学級にまなぶ児童は45人である。中津小では、3人の日本人教員と母語通訳者3名(スペイン語、1名はポルトガル語通訳も兼任・週に2回)が日本語学級での指導にあたっている。

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  1. [1]この回に登場する子どもたちの名前はすべて仮名。括弧のなかの「日系」は両親または祖父母のいずれかが日本人であることを表す。


第27回 親の故郷は外国だった

2011年3月20日


写真:ボランティア団体が主催するイベントに出展する各国の屋台。神奈川県愛川町にて

日系人コミュニティ

小田急電鉄の本厚木駅から車で北に30分。混雑する国道を避け、中津川に並行して走る県道を行く。のどかな田園風景がしばらく続き、やがて遠くに見えていた八菅山が徐々にせまってくる。ところが中津川を渡り、坂道を登りきると、住宅街へと景色が一変する。県道54号線を境にその先には、厚木市にかけて内陸工業団地がひろがっている。豊かな自然のなかにつくられた工業団地と古くからある市街地。それが、神奈川県愛川町をはじめて訪れたときの印象であった。

県道沿いのコンビニに飲み物を買うために立ち寄る。レジで私の前に並んでいたのは、ニット帽を深くかぶったラテン系の女性。私の視線を感じたのか、支払いを終えた彼女は警戒するようなまなざしでこちらを一瞥すると、足早に店を後にした。道路をはさんだ向かいにはブラジル食材店。その二階にはタイ料理店の看板がかかっている。目の前を通り過ぎる車の何台かは、外国人がハンドルを握っている。そのすべてが、もうなん年も前からこの町で暮らしてきたといった風情を醸しだしていた。

これはのちに知ったことだが、愛川町の人口4万3,000人のうち、2,600人が外国人であり、そのほとんどが自動車メーカーの下請工場を中心に、製造関連の企業が集まる内陸工業団地で働いているということ。また、その出身地域も中南米からの日系人以外にタイやフィリピンなど多岐に渡っている。

1990年に出入国管理法が改正され、日系人に対する就労制限が緩和されるとブラジルやペルーから大量の日系人が来日した。群馬県大泉町にブラジル人が集住していることは有名だが、愛知県豊橋市や静岡県浜松市といった東海地方にも南米出身の日系人がたくさん暮らしている[1]。そして、実はここ愛川町こそが国内最大の日系ドミニカ人集住地区なのである。

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  1. [1]法務省ホームページ 「国籍(出身地)別市・区別外国人登録者」参照
    http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001065021

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