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第25回 それぞれの守護聖人
2011年1月30日
写真: パトロナレスを前にバリオを行進する学生のバトン隊。ドミニカ共和国、バニにて
祭り囃子の誘惑
いつも冗談ばかり言っては場をなごませているベヘが浮かない顔をして、ひとり椅子に腰かけていた。おりしもバリオは年に一度のパトロナレス(守護聖人の祭り)をむかえて浮かれモードである。お祭り男のベヘがこんなしけたツラをしていてはこちらの調子もあがらない。
「どうした、ベヘ?」
「パトロナレスなんてなければいいのにと思ってさ……これから11日間、パトロナレスが続くだろ。普段は週末にしか飲まない酒が飲める。望むところさ。ただし金があればの話だ。ここ3日、建築現場の仕事がまわってこなくてスッカラカン。でも遠くから音楽が聞こえてくると、いてもたってもいられなくなる。で、結局行くんだけど金がない。人にたかるのは好きじゃないし、自分の金で好きなだけ飲めないなら、いっそのことはやく終わってくれたらいいのに……」
師匠を訪ねて
2011年1月29日
18歳のとき弟子入りして木彫を学びはじめたオバダレさんは、その後、大学でも木彫を専攻した。大学付属の自然史博物館の館長に依頼されて木彫作品をつくったことから、手先の器用さが認められ、その博物館で剥製師として雇われることになった。
犬
2011年1月22日
ケージの扉に鼻先と前足をはげしくあてながら、胸をおどらせて吠える。大好きなトペが近づいてくる。開かれた扉から飛びだして、トペのまわりをくるくるまわって離れない。笑って、跳ねて、あお向けに寝そべってみせる、ペドロ。
この町の大きな家のほとんどに犬がいる。武装強盗や空き巣を恐れ、みな番犬を飼うのだ。広い敷地内で放し飼いをする、あるいは、日中はケージのなかに入れて、暗くなるころ敷地内で放す。ペットというより門衛。散歩に連れられている犬はほとんど見かけない。道で見かける動物といえば、ヤギとニワトリとヒヨコ。
オロカダ!
2011年1月17日
バイクタクシーの運転手のことを、ヨルバ語で「オロカダ」という。文字通りの訳は、「バイクを持つ人」。
飛行機、バス、自家用車、バイクといった交通手段のなかで、もっとも多くの人びとがナイジェリア国内で利用しているのは、おそらくバイクだろう。100~125ccのバイクは、タクシーや自家用の乗り物として一番身近に存在している。
第24回 チチグアと少年
2011年1月16日
写真: あり合わせの材料でチチグアをつくるラモン。ドミニカ共和国、バニ
カリブの風にのって
バリオの人たちがセロ(丘)と呼ぶ場所がある。なんてことのないハゲ山で、でこぼこの岩がいたるところでむきだしになっている小高い丘。乾季には干あがってしまう小川を渡り、子どもたちが草野球に興じる原っぱを抜けるとなだらかな坂の入口に出る。そのあたりはバリオの人たちのゴミ捨て場と化していて、いつも2、3頭の牛がゴミの山に鼻先を押しつけてエサを物色している。私は息をとめて悪臭の漂う一帯をやり過ごし、そこら中に散らばっている牛糞に足をすくませながら頂上をめざす。
これまで何度セロへと足を向けただろう。調査にいきづまるとここに来た。頂上までのぼって腰をおろすとここちよい風がやさしく頬をなでて、疲れを遠くに運び去ってくれる。眼下に広がるバリオはそのなかにいると息苦しかったはずなのに、こうして全体を見わたしていると、愛しく思えてくるのが不思議だ。なにより坂道ダッシュをしている野球少年のほかには誰もやって来ないのがいい。いつのまにかここが調査地で唯一ひとりになれる安息の場所となっていた。
謹賀新年
2011年1月8日
「花火の音、聞こえる? いま、街中のひとたちがしあわせそうに騒いでるんだ。明けましておめでとう!」年を越してすぐの深夜0時過ぎ、大混乱する電話回線を押しのけてかかってきた着信。電話の向こうで、ラゴスのゲットーを歩くアレックスのはしゃいだ声と眠らない街の音。
第23回 勝利か死か
2010年12月26日
写真: 命を賭した闘い。ドミニカ共和国、サント・ドミンゴの闘鶏場にて
街角の闘鶏場
「ブランコ(白)、ブランコ!」「アスール(青)、アスール! دانيل الفيش 」
試合開始のベルが鳴っても、観客席の賭け金を煽る声はやまない。最前列に陣取ったオヤジさんは腕組みのまま、一点を凝視してうごかない。まのびした実況の声が、ガジェータ(駄菓子)売りのかん高い声に折り重なる。その直後、首根っこを押さえつけられ、踵で蹴りあげられた鶏の悲痛な叫び声が、会場の怒号のなかをぬって私の耳にまで届いた。
その日、首都郊外の下町にはじめて足を踏みいれた。闘鶏を見るためである。バスを2台乗り継ぎ、教えられたところで降りる。来た方向に少し歩いて、ピカ・ポージョ(中華料理店)の角まで来たら左に曲がるように、たしかにジョアンはそう言った。
友を招き、友を訪ねる
2010年12月25日
この年(2008)のクリスマスは日曜日だった。街の様子は普段と変わらない。乾季の灼熱と砂埃で霞んでいるせいだろうか――赤、白、緑、金、銀の「クリスマス色」はどこにも見あたらない。イスラム教徒の人たちにとってはいつもの日曜日だし、クリスマスをとくに祝わないキリスト教宗派に属す人びとも多い。ショッピングにケーキの予約、サンタクロースと靴下のなかのプレゼントは、世界のごく一部の話なのかもしれない。
悪魔を追い払えば
2010年12月20日
約束の時間ぴったりの朝10時。木彫家のアヨデレさんの姿はまだない。工房の壁にもたれかかっていると、近所の少年が小さな木の椅子を持ってきてくれた。腰かけて5分少々、いつものスズキのバイクがこちらへ向かってくるのが見えた。
第22回 愛に苦しむものたちへ
2010年12月12日
写真: フェリンの息子と戯れるペロテロ。アメリカ合衆国、ペンシルバニアにて
元メジャーリーガーの恋
「ドミニカの人たちはラテン系だから人生を謳歌しているんでしょう?」とよく聞かれる。たしかに「いま」という一瞬を激しく生きる彼らは、人生をあますところなく享受しているように見える。しかるに、ラテン的に生きることの辛さやわびしさがある。心を狂わすような恋に身をやつし、終始おいたてられた挙句に、なるようにしかならないと居直ってしまえれば楽であるが、そんなふうに簡単にいかないのが人間というものである。
ひとりの元メジャーリーガーがペンシルバニアのドミニカ人街でくすぶっている。ペロテロ(野球選手)と呼ばれるその男は、元ヤンキースの投手である。といっても、スプリング・トレーニングに呼ばれたときに肩を故障し、そのまま引退してしまったから、公式戦では一度も投げていない。それでも、ヤンキースとのメジャー契約は栄光と挫折をもたらし、その陰影のなかをさまよいながら、手さぐりでたどり着いたのがこの街だった。
野球をやめてからもドミニカには帰らずアメリカにとどまったのは、ドミニカのパスポート所持者がいったん出国した場合、正規に再入国できる保証などなく、これまでに自由契約となった多くのドミニカ人選手たちがそうしてきたからだった。そのときすでに、故郷の島にはふたりの子どもがいたから、そのことも理由のひとつであったと推測する。しかしそれ以上に、彼をこの地に踏みとどまらせたのは、ひとりのプエルト・リコ人女性との出会いであった。ボストン近郊のローレンスに部屋を借りてすぐのころに恋におちた女性がいた。現在の妻である。
血は水よりも濃い
2010年12月11日
9jaで誰かと友だちになること、それはその兄弟姉妹ともつながるということ。電話でもメールでも、結びはいつも家族の名前をあげ、「○○によろしくね」としめくくる。両親や祖父母、叔父叔母ならとくに固有名詞は必要ないけれど、兄弟姉妹はそれぞれの名前を言わないといけないからたいへん。たとえばアミナは7人兄妹だが、みんなよくアミナを訪ねて来ていたし、話や写真でも彼らのことを聞きなれていたので、いつのまにか名前も順番も覚えていった。9jaは大家族が多いにもかかわらず、不思議とみんな記憶しているものだ。